ベクトル解析における演算子 ∇(ナブラ、英: nabla、del)は、ベクトル微分演算を表し、特に一次元の領域で定義された函数に施すとき、微分積分学で定義される通常の微分 D = d/dx と同じになる。多次元の領域上で定義された場に施すときには、スカラー場の勾配 grad や、ベクトル場に対しては作用のさせ方により回転 curl や発散 div を与えたりする。
厳密に言えば、∇ は特定の作用素を意味するのではなくて、いま挙げたような演算に対する簡便記法と考えるべきであって、これにより様々な等式が覚え易く書き易いものとなる。∇ を偏微分作用素を成分とするベクトルと解釈すれば、三種の演算 grad, div, curl(またはrot) は、場と ∇ とのそれぞれスカラー倍、点乗積、交叉積を形式的に取ったものと見做すことができる。これらの形式的な積が、必ずしも他の作用素や積と可換であることは要求されない。
座標 (x, y, z) を持つ三次元デカルト座標空間 R3 において ∇ は、偏微分作用素を項とするベクトルとして
で与えられる。ただし、 はそれぞれ x, y, z 方向の単位ベクトルである。本項では三次元の場合を主に扱うが、これは n-次元ユークリッド空間 Rn に対しても一般化することができて、直交座標系の座標が (x1, x2, …, xn) とすれば
で与えられる。ただし、 は標準基底とする。
アインシュタインの和の規約に従って
と書くこともできる。
他の座標系での ∇ の表示に関しては円柱および球座標系におけるナブラ(英語版)などを参照。
長い数式を簡略化するために ∇ が使われることもある。このような使い方をする最も一般的に知られる例は勾配、発散、回転、方向微分、ラプラス作用素などであろう。
スカラー場 f のベクトル微分は勾配(en:gradient)と呼ばれ、
で表されるベクトル場である。これは常に f の最も増加の大きい方向を指し、その点における最大増加率に等しい大きさを持つ(通常の微分と同様)。特に、丘陵を平面上の高さ函数 h(x, y) として定めるとき、各地点での勾配を平面に射影したものは(地図上の矢印のような類で)各地点の最も傾きが急な方向を指す xy-平面上のベクトルとなり、勾配の大きさは、この最も急な傾きの値になる。
∇を用いた記法が特に強力なのは、一次元の場合の微分と同様の積の規則
が成り立つことにある。しかし、スカラー積に関する積の規則を簡略化することはできず、実際に書けば
となる。
ベクトル場 の発散(en:divergence)は
で表されるスカラー場である。発散はベクトル場の指す方向にそれがどれくらい増加するかを大まかに測るものであるが、より精確には場がその点から発散するか、あるいはその点に向かって収束するかの傾向を測るものである。
∇記法の威力はやはり積の規則
によって示される。しかし可換でないベクトル積に対しては少し直観から外れて
とせねばならない。
ベクトル場 の回転(en:curl ,rotation)は
で表すことができるベクトル場である。各点における回転の値は、その点に中心を持つ小さな風車の軸周りのトルク(回転力)に比例する。
このベクトル積演算を行列式もどきに
として視覚化することができる。これもやはり積の規則
が成立することが強みだが、残念ながらベクトル積は簡単にならず
となる。
スカラー場 f(x, y, z) の 方向への方向微分は
で表される。これは場 f の a 方向への変化量を与えるものである。作用素の記法では、括弧に入れた要素は一つの一貫した単位と考えられ、この規約は流体力学では(流体の「動く」微分としての)流体微分の言葉で縦横に用いられている。
ラプラス作用素はベクトル場にもスカラー場にも施せるスカラー作用素である。直交座標系では
で与えられ、より一般の座標系に対してはベクトルラプラス作用素(英語版)によって定義することができる。
ラプラス作用素は現代的な数理物理学に遍在しており、そのごく一部を挙げるならばラプラス方程式、ポアソン方程式、熱方程式、波動方程式、シュレーディンガー方程式などにおいて現れる。
∇をベクトル場に施して、結果がテンソルとなることもある。ベクトル場 のテンソル微分は9つの成分を持つ二階テンソルだが、これを二項積 ⊗ を用いて、簡単に
と書くことができる。この量は空間に対するベクトル場のヤコビ行列の転置に等しい。
微小変位 に対して、ベクトル場の変位は
で与えられる。
スカラーやベクトルに∇を施すと一般にスカラーやベクトルが返ってくるのだが、ベクトルの乗法は多様(スカラー倍、スカラー積、ベクトル積)だから、∇の施し方ですでに勾配(スカラー倍)・発散(スカラー積)・回転(ベクトル積)の三種類の微分が生じている。そこでこの三種類の微分に、再び各種微分を施すと可能なものが五種類出てきて、これにラプラス作用素とベクトルラプラス作用素を加えると、以下のようになる。f はスカラー場、v はベクトル場として、
これらは常に一意と言うわけでも互いに独立と言うわけでもないという意味でそれ自体興味深い。素性のよい函数に対しては、これらのうちの二つが常に零、即ち
が成り立ち、また二つは常に等しい:
残る三種のベクトル微分の間には等式
が成り立ち、さらに一つはテンソル積を用いて表すことができて、素性の良い函数に対して
が成り立つ。
上で述べたベクトルの性質の大部分は(∇の微分的性質に陽に依存する部分、例えば積の法則などを除いて)記号の再配置のみに依っていて、∇を他のベクトルで置き換えても必然的に成り立たなければならない。これは∇をそれ自身ベクトルとして表すことで得られた莫大な価値の一部である。
∇をベクトルで置き換えてベクトルの恒等式をしばしば得ることができるが、恒等式を直観的に作ることに関して、逆は必ずしも信用できない。∇はしばしば可換でないことが理由である。
∇の可換性に対する反例として、通常成り立つ等式
に対して
であることを挙げよう。実際、
ととは異なる。
また∇の微分的な性質を用いた反例としては、
が成り立つが、一般には
である。
これらの違いが生じる根本は、∇が単なるベクトルではなくてベクトル作用素であるという事実である。ベクトルが明確に数値的な大きさと方向を持つ対象であるのに対し、∇は何かに作用することができて初めて大きさや向きが明確となる。
こういった理由によって、∇を含む恒等式の導出は、ベクトルの恒等式と(積の法則のような)微分の恒等式の両方に基づいて慎重に行われなければならない。
- Schey, H. M. (1997). Div, Grad, Curl, and All That: An Informal Text on Vector Calculus. New York: Norton. ISBN 0-393-96997-5
- Miller, Jeff, Earliest Uses of Symbols of Calculus, http://jeff560.tripod.com/calculus.html
- Moler, Cleve (January 26, 1998), History of Nabla, netlib.org, http://www.netlib.org/na-digest-html/98/v98n03.html#2