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ノート:上海日本人僧侶襲撃事件

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出典

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この事件の一番?の基本資料は、田中隆吉「上海事変はこうして起された」(『別冊知性 秘められた昭和史』)だと思います。ですが、この記事とは微細な点で異なる箇所などがあるため、出典として良いものかどうかは良く分かりません。... Kanoe 2009年2月22日 (日) 11:15 (UTC)[返信]

田中隆吉は「上海事変はこうして起された」において赫々云々と記している、というような書き方であれば、出典とするのは、全然問題無いと思います。Takabeg会話2015年6月23日 (火) 10:31 (UTC)[返信]

一部削除について

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このたび「ただし、関東軍の謀略説について田中隆吉以外の証言は無いため、その信憑性については議論がある。」の一文を削除しました。「要出典」のタグが2012年12月にゆけられて以来、信憑性を疑う具体的な根拠が示されることなく1年以上が経過したためです。当方も寡黙にしてそのような議論があることは存じませんし、この一文を書かれたばーばー氏ほかの方が提示されていません。ネットでそのような議論があるといったものではなく、具体的に誰がそのような議論をしたのかについて検証可能な記述を得られるのであれば、復帰するのは問題ないといえますが、いかがでしょうか?--Sky Wing Sky会話2014年3月6日 (木) 11:26 (UTC)[返信]

Sky Wing Skyさん、こんにちは。この編集で除去した部分のことですね。加筆しておきました。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 11:21 (UTC)[返信]

田中謀略説のあつかい

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第一次上海事変関連の記事で、田中謀略説が有力説では必ずしもない、みたいな書き方が目立ちます。

いくつか文献を見ました。以下の文献で、襲撃事件は日本軍の謀略としています。--122.20.16.222 2015年3月8日 (日) 04:37 (UTC)[返信]

  • 『角川世界史辞典』2001年、「上海事変」項目
この項目は高綱博文氏が執筆されています。そこには、「上海を中心とした日中両軍の交戦。第一次 (一・二八事変)は1932年1-5月。満洲事変後日本軍部は、上海でも排日運動による日本居留民の不安を扇動し、日本人僧侶を殺傷する謀略を用いて中国軍を攻撃したが、十九路軍の抗戦と中国民衆の抵抗により勝利できず、5月停戦協定を結んで撤兵した」とありますが、事実誤認・歪曲があると思います。まず、日本軍部が『民國日報』に「不敬」記事を書かせたり、排日貨運動を起こしたりした事実はありませんので、「上海でも排日運動による日本居留民の不安を扇動」するというのはおかしいです。次に、「十九路軍の抗戦と中国民衆の抵抗により勝利できず」というのは、敢闘はしたので「精神的勝利」にはなり得るかもしれませんが (百科事典的ではないです)、、、読んでいて執筆者が中国の歴史観の強い影響を受けていると思いました。中国の歴史観が全て捏造・誇張とは言いませんが、本件に関しては誤解を与える表現になってしまっています。Takabeg会話2015年6月30日 (火) 11:57 (UTC)[返信]
『角川世界史辞典』の「上海事変」の項目には「不敬」記事や排日貨運動が日本側の陰謀だとはどこにも書いてありません。既に中国側によって引き起こされていた排日運動により高まっていた日本人居留民の不安を日本軍部が更に扇動する事で僧侶襲撃から上海事変という一連の事件を発生させた、と記述されているだけですから『角川世界史辞典』が僧侶襲撃を日本側謀略説を有力説として支持・採用しているのは明白です。あと「十九路軍の抗戦と中国民衆の抵抗により勝利できず」の部分は、日本軍が撤退したのは事実なので記述が中国寄りに偏向しているとは思えませんし、そもそも僧侶襲撃事件と全く関係ない記述ですから誤解の与えようがありません。--114.170.20.33 2016年12月12日 (月) 02:36 (UTC)[返信]
  • 『山川世界史B』2010年版、324p
Wikipedia:信頼できる情報源を見ると、「K-12水準の教科書は権威があるようには作られておらず、ウィキペディアの編集者は避けるべきです」とあります。Takabeg会話2015年6月23日 (火) 10:21 (UTC)[返信]
  • 『近代日中関係人名事典』東京堂出版、2010年、田中隆吉の項目
田中隆吉」の項は戸部良一氏により執筆されており、「32年1月、折から進行中の満州事変に呼応し、中国人を買収して托鉢中の日本人僧侶を襲わせ、その犯人たちが勤務する工場を、報復のためと称して日本人集団に襲撃させた。満州で新国家樹立工作を推進する板垣征四郎 (関東軍高級参謀)の要請に応じて、列国の目を満州からそらすための謀略であった」とあり、参考文献は、田中隆吉『敗因を衝く』 (山水社、1946年、中公文庫、1988年)、田中稔編『田中隆吉著作集』(私家版、1979年)が提示されています。一方、同じ辞典の「川島芳子」の項 (執筆者は松重充浩氏)では、「また、田中隆吉の回想に拠れば、上海で田中の指示で、32年1月の第一次上海事変の契機となる上海日本人僧侶襲撃事件実行の諸手配を行ったとされる」(207頁)とあり、参考文献は、川島芳子 (伊賀上茂)『動乱の蔭に:私の半生記』(時代社、1940年)、林杢兵衛編『川島芳子獄中記:川島芳子手記』(東京一陽社、1949年)、上坂冬子『男装の麗人:川島芳子伝』(文藝春秋、1984年)、園本琴音『孤独の王女川島芳子』(智書房、2004年)、寺尾紗穂『評伝川島芳子:男装のエトランゼ』(文春新書、2008年)となっています。方おばあさん関係の本はあまり読んだことがないのでコメントを差し控えますが、1946年に出された『敗因を衝く』には上海事変での謀略について書かれていません。また、粟屋憲太郎氏は「『田中隆吉著作集』の第552頁には「事件のほうはともかくとして、上海事変は責任を問われると思ったが、キーナンは派生的な事件としてあまり問題とせず法廷にも持ち出さなかった」というが、上海事変について田中が証言したという事実は少なくとも尋問調書からは確認できない (粟屋憲太郎『東京裁判への道』文庫版 ISBN 978-4-06292-179-4 ですと239-240頁、ハードカバーですと200頁)」としています。実際に、田中の証言が「東京裁判での証言」であるかのように書かいている書籍や論文も散見されますが、資料的には確認されていないということです。ということなので、善意にとれば、戸部良一氏が「田中隆吉の証言によれば」という部分をはしょったともとれるような気がします。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 05:46 (UTC)[返信]
田中隆吉が事件について証言したのが1956年出版の『別冊知性 5 秘められた昭和史』の中だとすれば、1946年に出版された『敗因を衝く』の中で事件についての証言が無いのは当然ですし、1979年出版の『田中隆吉著作集』についても、東京裁判の時点ではまだ事件について公に証言していないので尋問調書に残らないのは当然ではないでしょうか?また、元陸軍少将上田昌雄の息子である上田博章氏の徳島エコノミージャーナル2011年新年号への寄稿[1]によれば、田中隆吉は1932年に板垣征四郎大佐から2万円の工作資金と命令書を受け取ったそうです。加えて上田博章氏によれば、田中隆吉は1965年の東京12チャンネルのテレビ番組、「私の昭和史」の中で自分が謀略を実行したと証言したそうです。1965年に放送された番組の中で本当に田中隆吉本人の口から事実を認める証言が出たのかどうか、2016年現在の我々が検証するのは凄く大変そうですが、参考までに東京12チャンネル報道部が出版した、田中隆吉が出演した放送回が含まれる「証言私の昭和史 第1 (昭和初期)」の詳細情報[2]を載せておきます。--114.170.20.33 2016年12月12日 (月) 02:36 (UTC)[返信]
  • 榎本泰子『上海』中公新書、2009年、151p
「前年の満州事変から世界の目をそらすため、日本軍は上海で日本人僧侶襲撃事件をでっちあげ、これが中国側の仕業であるとして賠償や抗日団体の即時解散などを要求した」とあります。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 05:46 (UTC)[返信]
  • 石川禎浩『革命とナショナリズム』岩波書店、2010年、79p
「1932年1月には、上海でも中国側と軍事衝突を起こしていた。これまた日本側の謀略に端を発する衝突で、事件発生の日付から中国では「一二八事件」と呼ばれる」とありますが、上海日本人僧侶襲撃事件には一切言及されていません。この新書では「日本側の謀略」というのがどの事件を指すのかが分からないのです。三友實業社工場襲撃事件のことを言っているのかもしれません。いずれにしても、本記事で使用するのは無理であると考えられます。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 05:46 (UTC)[返信]
事件当時の中国において「一・二八事件の発端になった日本の謀略」といえば当然に僧侶襲撃事件を指すと思われます。中国では「日本和尚事件」と呼ばれて一・二八事変と共に語られています。川島芳子の妹にあたる愛新覚羅顕琦も一・二八事件の発端は田中隆吉と川島芳子の陰謀、つまり僧侶襲撃事件だと网易新闻の記事で証言[3]←(記事の翻訳[4])しています。--114.170.20.33 2016年12月12日 (月) 02:36 (UTC)[返信]

いずれも現役の歴史学者によるものです。一方で謀略を否定する向きの文献は見つかりません。細かく探せばあるかもしれませんが、傍説の域をでないものと思われます。--122.20.16.222 2015年3月8日 (日) 04:37 (UTC)[返信]

榎本泰子氏は、厳密に言うと、歴史学者ではなく、音楽学者です (音楽の歴史を扱ってはいますが)。ちなみに、『事件・犯罪大事典』の「上海の日本人僧侶襲撃事件」を執筆した 田中伸尚さんも歴史学者ではありません。Takabeg会話2015年6月30日 (火) 05:49 (UTC)[返信]
日本国憲法第38条にもあるように「唯一の証拠」が「本人の自白」のみの場合は有罪になりません。とはいえ、この記事は憲法関係の記事ではないので、ソースをつけておきます。例えば、奥田尚さんは、「東京裁判での上海駐在公使館付武官田中隆吉陸軍少佐の証言では、田中少佐が関東軍などから得た資金により、買収した中国人に狙撃させたというが、田中証言を疑問視する意見も多い」と書いています。(奥田尚「都市上海と日本人 ― いくつかの断面―」、追手門学院大学国際教養学部アジア学科編『アジアの都市と農村』和泉書院、2013年10月、76頁。)また、NHK"ドキュメント昭和"取材班『上海共同租界―事変前夜』角川書店、1986年5月、で臼井勝美氏と伊藤隆氏が田中証言の信憑性を論じていますので、そちらも参考にしてみてください。結論から言いますと、「○○説が一般的である」と断言してしまうのは感心できません。Takabeg会話2015年6月23日 (火) 10:16 (UTC)[返信]
村瀬興雄 「世界の歴史(15)」中公文庫、1975年 p.278によれば、田中隆吉は「十月上旬に花谷から呼ばれて奉天へ行き、そこで板垣大佐から上海に騒乱を起こす事によって満州問題から列国の目をそらすように要求された。関東軍から運動資金二万円、更に鐘紡の上海出張所から一〇万円を借り、これによって上海に事をおこす準備工作を行った。日蓮宗托鉢僧を狙撃した中国人も自分が買収したものだった。」という発表を戦後に自ら行ったそうです。田中隆吉は本事件以外にも複数の謀略を実行したと自ら認めていますし、証言にも具体性があります。それに対して田中証言への反論は「疑問視する意見も多い」とか「全部嘘だ」とか言うだけで、奥田、臼井、伊藤、どの方の反論も具体性が有りません。田中証言のどの部分が別の事実と矛盾しているとか、そういう指摘が無いと田中隆吉本人の証言を否定する材料にはならないと思います。--114.170.20.33 2016年12月12日 (月) 02:36 (UTC)[返信]

朝日新聞

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「この事件により、日ごろから中国人による暴動に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、、、」というくだりですが、当時の新聞なので、今日判明している話との違いがあります。したがいまして、{{要検証}}を貼っておきます。Takabeg会話2015年6月30日 (火) 05:43 (UTC)[返信]

新聞のアーカイブ(縮刷版ネット版)にはそう書いていますね。当時の新聞なので日本当局の”意向”が反映されているからそうなったのだと思います。当時の報道ではという注釈を入れたらたいおうできるでしょう。--Sky Wing Sky会話2015年7月9日 (木) 00:29 (UTC)[返信]

重藤憲兵大尉

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重藤憲史という名前は、中国語版ウィキペディアのほかには、2013年に台湾で出版された何永勝『日本海軍陸戰隊興亡史(中冊/試閱版): 侵略怒濤(1911-1941)』くらいにしかでてきません。田中隆吉によると、川島芳子に日蓮僧を襲撃させ、重藤千春憲兵大尉に三友実業社の工場を襲撃させた、ということになっています。また、荻原極の『松岡洋介』には、「千春の実兄で参謀本部支那課長の重藤千秋も謀略を事前に承知し、田中を激励し、専田大尉を連絡に派遣していた」とあります。豊田穣の『孤高の外相重光葵』には、「その前に参謀本部の支那班長、重藤(千秋)大佐が関わっていたという説がある。重藤の弟憲兵大尉重藤千春は、上海で僧侶襲撃事件の指揮者であった。」とあります。いずれにしても重藤憲史はなさそうなので、何永勝という方は、ウィキペディアのコピペをしてしまったのでしょうね。Takabeg会話2015年7月1日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

重藤憲文 (のりふみ)憲兵大尉のようです。Takabeg会話2015年7月12日 (日) 09:50 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

上海日本人僧侶襲撃事件」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月23日 (土) 20:44 (UTC)[返信]

徳島エコノミージャーナル2011年新年号

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114.170.20.33さん、『徳島エコノミージャーナル2011年新年号』の記事読みました。①子供のころ父親に温泉に連れられて行ったら田中隆吉を見た、という話と、②テレビで田中隆吉が証言していた、という話が書かれていますが、それを「1965年の東京12チャンネルのテレビ番組、「私の昭和史」の中で田中自身が謀略を実行したと証言した」の典拠とするのはおかしいと感じました。話としては記事の理解を深めるために有益かもしれない部類なので外部リンクとして使用してもいいのではないかと個人的には思いますが、件の文言の典拠としては、"〈証言者〉宮崎世竜田中隆吉「装甲車とクリークと―上海事変の真実―」東京12チャンネル報道部編・監修=有馬頼義小西四郎高木健夫 司会=三国一朗『証言 私の昭和史 1 昭和初期』學藝書林、昭和44年6月23日 第1刷発行、175~176頁。"が適切です。そのほかに、使えそうなものとして、

  • 秦郁彦が昭和28年11月に2回にわたって専田盛寿に対して実施したヒアリングで、「青年組織を使って日蓮宗の坊さんにテロをやった。田中は鐘紡から十万延借りた。田中の謀略は、上海に出兵する口実をつくる見地からは成功したと思う。」との証言を得た (秦郁彦『実証史学への道― 一歴史家の回想』中央公論新社、2018年7月25日 版発行、ISBN 978-4-12-005009-2、242頁。)。
  • 秦郁彦が昭和28年10月~12月に3回にわたって田中隆吉に対して実施したヒアリングで、「昭和七年一月十八日夕方、江湾路にある日蓮宗妙法寺の僧侶が托鉢寒行でまわっているのを、買収した中国人の手で狙撃させた。」との証言を得た (同書、206頁。)
  • 遠藤三郎は、田中隆吉から「日蓮坊主の傷害はおれがやらしたのだ」と直接聞いたことがあったと記している (遠藤三郎『日中十五年戦争と私―国賊・赤の将軍と人はいう』日中書林、1974年11月15日 初版第一刷発行、0031-0183-6038、33頁。)。

あたりを追加しておけばいいのではないかと思います。--Takabeg会話2019年7月28日 (日) 11:43 (UTC)[返信]