コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヒンメト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヒュンメトから転送)

ヒンメトアゼルバイジャン語: Himmət、「エネルギー」の意)とは、ロシア帝国末期のアゼルバイジャンで誕生した、イスラム世界最初の社会民主主義組織である[1]

歴史

[編集]

1904年バクーの青年活動家たちによって設立された。発足当時のメンバーにはロシア社会民主労働党に属していたメフメト・エミーン・ラスールザーデ1913年に脱退)、スルタン・メジド・エフェンディエフ、ミル・ハサン・メフセモフ (az)、A・D・アフンドフ、マンメト・ハサン・ハジンスキー英語版アリョーシャ・ジャパリゼなどの人士が含まれていた。翌年にはロシア社会民主労働党員であるメシャジ・アジズベコフナリマン・ナリマノフの両名が加わった。

1904年10月から翌年2月までの間、ヒンメトは組織と同名のアゼルバイジャン語新聞を非合法に6号発行した。1905年から1907年にかけてバクーの石油産業労働者連合のストライキを組織し、パンフレットも発行した。そのロシア第一革命の時代には組織を大幅に強化し、バクーのみならずアゼルバイジャン各地やダゲスタンザカスピ州まで勢力を拡大し、エリザヴェトポリジュルファロシア語版ナヒチェヴァンシャマヒアゼルバイジャン語版シュシャ英語版にも支部を持った。とりわけチフリス支部は100人を超す人員を擁し、1905年末まで様々な活動を行った。1906年から翌年まではアルメニアの社会民主労働党党支部と共同で『アピール』(Dəvəti-qoç) 紙を発行し、『進歩』(Təkamül) や『友』(Yoldaş) といったアゼルバイジャン語の党機関紙も発行した。しかし、1907年半ばに帝国政府から激しい弾圧を受け、ヒンメトはその急速な拡大と同じほど急速に支持者を失っていった。指導層の逮捕やイランへの逃亡が相次ぎ、同年末までにヒンメトは壊滅した。

1917年二月革命が起こると、ナリマノフとアジズベコフがヒンメトを再建し、バクーや他のアゼルバイジャン各地の都市にも支部が復活した。同年6月、新たな党委員会の委員長にナリマノフが選出され、機関紙『ヒンメト』も復活した。8月にサンクトペテルブルクで開かれた第6回大会ロシア語版で、ヒンメト左派はボリシェヴィキのバクー支部と合同することが決められた。

その後、1918年アゼルバイジャン民主共和国が独立し、バクー・コミューンも崩壊すると、ヒンメト左派のうちボリシェヴィキはアストラハンへ逃亡し、一部は地下へ潜伏した。ヒンメト右派のうちメンシェヴィキ民主共和国議会社会主義の派閥を形成した。

1920年2月11日、ボリシェヴィキのバクー支部は、在バクー・イラン人による社会民主主義組織「アダーラト」とともにアゼルバイジャン共産党へ吸収された[2]。やがてアゼルバイジャンにソビエト権力が成立すると、共産党はその支配者となった。

評価

[編集]

1918年にバクーでボリシェヴィキとムスリムの間に流血の争い(三月事件英語版)が発生した際、ヒンメトはミュサヴァト党を打倒してバクーで権力を握るために、バクー・コミューンやダシュナク党の民兵に加担して虐殺を行ったとする情報がある[3][4]。だがその一方で、ヒンメトは虐殺に対して非常に批判的だったという見方も存在する。例えばエフェンディエフは次のように書いている[5]

ダシナク党は、タギエフロシア語版やナギエフ (ru) のような資本主義者を金蔓として保護した一方で、ソビエトの名の下に貧民街の至るところでイスラム教徒を虐殺した。ラライエフなどの億万長者に率いられたダシュナク党は、もはやミュサヴァト党だけでなく一般のイスラム教徒までも標的にしていた。(中略)そして結局は、ソビエトの先頭に立っていたシャウミャンやジャパリゼ、その他の同志たちも、ダシュナク党によって投獄されることになった……

脚注

[編集]
  1. ^ И.С. Багирова. Политические партии и организации Азербайджана в начале ХХ века. - Баку, 1997, с.30
  2. ^ The seeds of national liberation
  3. ^ Ariel Cohen, "Russian Imperialism: Development and Crisis", Praeger/Greenwood 1996, p. 73, ISBN 0-275-96481-7
  4. ^ Firuz Kazemzadeh. "Struggle for Transcaucasia: 1917-1921", New York Philosophical Library, 1951
  5. ^ Жизнь Национальностей, № 25 (33), 6 июня, 1919.