ベンヤミン・ビルゼ
ベンヤミン・ビルゼ Benjamin Bilse | |
---|---|
基本情報 | |
生誕 |
1816年8月17日 プロイセン王国、リーグニッツ(現レグニツァ) |
死没 |
1902年7月13日(85歳没) プロイセン王国、リーグニッツ |
ジャンル | クラシック |
職業 | 指揮者、作曲家 |
ベンヤミン・ビルゼ(Benjamin Bilse, 1816年8月17日 - 1902年7月13日)は、ドイツの指揮者、作曲家。
生涯
[編集]ビルゼはプロイセンのシュレージエン州リーグニッツ(現ポーランド・レグニツァ)に生まれた。ウィーン音楽院においてヴァイオリニストのヨーゼフ・ベームの下で恵まれた音楽教育を受けた彼は、ヨハン・シュトラウス1世のオーケストラで演奏した。リーグニッツに戻った彼は1842年に町のカペルマイスターに就任した。
ビルゼは1867年からベルリンのライプツィヒャー・シュトラーセにあるベルリン・コンサートハウス(Berliner Concerthaus )でビルゼバンド(Bilse'sche Kapelle)を組織して定期的に演奏した。このオーケストラは次第に人気を獲得していき、ビルゼはヨーロッパ中を演奏旅行して周りサンクトペテルブルク、リガ、ワルシャワ、アムステルダム、ウィーンで演奏会を開いた。このオーケストラは1867年にパリで行なわれた万国博覧会に出演し、ヨハン・シュトラウス2世と共にワルツ『美しく青きドナウ』を演奏している。1873年にはリヒャルト・ワーグナーがこのオーケストラの指揮台に上がり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の御前で演奏を披露した。
1882年にビルゼと対立したビルゼバンドの54人の奏者がビルゼの元を離れ、ルートヴィヒ・フォン・ブレナーを指揮者に立ててベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を設立した[1]。この数年後に引退してリーグニッツに戻り、同地で生涯を閉じた。
作品
[編集]作曲家としてのビルゼはおびただしい数のワルツ、ポルカ、カドリーユ、行進曲などを作曲し、そのうち42作品が出版された。
出典
[編集]- ^ “Die drei Krisen der Philharmoniker”. Berliner Zeitung (2007年5月). 2012年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月1日閲覧。
外部リンク
[編集]- ベンヤミン・ビルゼの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- Biografie bei der Bilse-Gesellschaft in Detmold
- Jochen Georg Güntzel: Benjamin Bilse (1816–1902): Vom „Stadtmusicus“ zum gefeierten Dirigenten: Ausstellung der Lippischen Landesbibliothek Detmold und der Bilse-Gesellschaft.