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ファイル‐ノート:YoshitakaSatake.jpg

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銅像来歴、著作権の状態について[編集]

銅像来歴に関し、ネット検索のみですが、判明した内容を記しておきます。

  • 1915年、戊辰勤王記念銅像建設委員会によって建立[1]
  • 1944年、解体撤去[1]
  • 1953年、旧銅像の原型小型像を設置[2]
  • 1989年、戦前同様の像を完全復元し、設置[1][2]

現行の銅像の著作権に関し、 1915年公開の無名若しくは団体著作物の複製品と考えられますので、日本では1945年に保護期間満了、アメリカでの著作権復活なしで、両国ともパブリックドメインである可能性が高いと思います。--むらのくま会話2023年4月19日 (水) 02:35 (UTC)[返信]

戊辰勤王記念銅像建設委員会は最初の像を設置した人々であって、著作者ではないのではないでしょうか。小場 恒吉 (おばつねきち) - 文様学の権威を見ると、東京美術学校の教師たちが作ったとあり、何人か名前が挙がっています。また吉田千鶴子「東京美術学校委嘱製作資料」(東京芸術大学美術学部紀要第13号)によれば、戊辰勤王紀念銅像建設委員会の委嘱で東京美術学校が像を作ったそうで、佐竹義堯公は誰が何を担当したかも書かれています。当時の東京美術学校はこの種の委嘱を積極的に受け入れており、佐竹義堯公は遠くて大変だったそうです。委嘱の場合、実際に作った人は名前を出さない契約になっていることもありますが、この作品は誰が作ったか戦前から知られており、小場恒吉に関しては代表的な成果としてよく挙げられています。誰が作ったか知られていなかったとは思えません。私もネット検索のみですから詳しくはわかりませんが、「著作者」として表示するのであれば、何人もいる作り手の誰が著作者になるのか、それが委員会なら「記」と「紀」のどちらなのか、確認した方がよいと思います。--西村崇会話2023年5月31日 (水) 22:06 (UTC)[返信]
コメント 詳細な調査有難う御座います。そうすると、
となりますでしょうか。私は紙媒体などを調べることは難しいのですが、これでいいのであれば、ファイル概要に反映させようと思います(もっと調べたいとのことであれば、後はお任せします)。なお、この内容であれば「日本で著作権保護期間満了、アメリカでの著作権復活なし」に変更はない様に思います。--むらのくま会話2023年5月31日 (水) 23:48 (UTC)[返信]
  1. ^ a b c 千秋公園佐竹義堯公銅像”. 秋田市 (2018年6月20日). 2023年4月19日閲覧。
  2. ^ a b 1989年7月12日付け現地案内板。ネット上の写真で確認。
  3. ^ 千秋公園佐竹義堯公銅像”. 秋田市 (2018年6月20日). 2023年4月19日閲覧。
  4. ^ 人間文化研究機構国文学研究資料館学術資料事業部(編)「秋田県北秋田郡大館町中田家文書目録」『史料目録』第109巻、人間文化研究機構国文学研究資料館、2019年3月31日、14頁、ISBN 978-4-87592-192-9ISSN 2189-90102023年6月1日閲覧 
  5. ^ 吉田千鶴子「東京美術学校委嘱製作資料」(東京芸術大学美術学部紀要第13号)によると「戊辰勤王紀念銅像建設委員会」
  6. ^ 吉田千鶴子「東京美術学校委嘱製作資料」(東京芸術大学美術学部紀要第13号)
  7. ^ a b c 柴山芳隆 (2014年2月14日). “小場 恒吉 (おばつねきち) 文様学の権威”. 秋田県立秋田高等学校同窓会. 2023年6月1日閲覧。
  8. ^ "白井 雨山". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2023年6月1日閲覧