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ブラウンシュヴァイク公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブラウンシュヴァイク公国
Herzogtum Braunschweig
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領
ブランケンブルク侯国
1815年 - 1918年 ブラウンシュヴァイク自由州
ブラウンシュヴァイク公国の国旗 ブラウンシュヴァイク公国の国章
国旗国章
ブラウンシュヴァイク公国の位置
ドイツ帝国内におけるブラウンシュヴァイク公国
首都 ブラウンシュヴァイク
公爵
1815年 - 1815年 フリードリヒ・ヴィルヘルム
1913年 - 1918年エルンスト・アウグスト
変遷
創設 1815年
滅亡1918年

ブラウンシュヴァイク公国(Herzogtum Braunschweig)は、ドイツ連邦北ドイツ連邦ドイツ帝国領邦の一つ。1815年ウィーン会議の結果、かつて神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公領だった地域を領土として創設された公国である。首都はブラウンシュヴァイク

歴史

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ヴォルフェンビュッテル公国はナポレオン戦争フランス軍に占領され、ナポレオン衛星国家ヴェストファーレン王国に組み込まれた。ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ・ヴィルヘルムはこれを認めず、ゲリラ戦でナポレオンの支配に抵抗した。1813年にヴォルフェンビュッテルが解放されると、ナポレオン戦争後のウィーン会議で公国の地位が認められ、ブラウンシュヴァイク公国に改名された。

フリードリヒ・ヴィルヘルムはエルバ島からフランスに戻ったナポレオンと戦って戦死したが、百日天下でナポレオンがセントヘレナ島へ流刑になり、長男のカール2世がブラウンシュヴァイク公として即位した。幼少のため、成人するまでは同族でイギリスハノーファー王国の摂政ジョージ(後のジョージ4世)が後見人となったが、成人後の統治は不評で、1830年にフランスで7月革命が勃発するとブラウンシュヴァイク市民が反乱を起こし、カール2世は退位に追い込まれ、弟のヴィルヘルムに公位を譲って亡命した。ヴィルヘルムは統治は大臣に任せて自らはエールス公領で過ごした。

ドイツ統一では主導していたプロイセン王国に従い、ドイツ連邦北ドイツ連邦ドイツ帝国領邦として存続した。ところが、子のないヴィルヘルムが同族の元ハノーファー王太子エルンスト・アウグストを後継者に迎えようとしたことからドイツ帝国との関係は悪化した。ハノーファー王国は普墺戦争オーストリア帝国側につき、敗れてプロイセンに併合されていたからである。結果、1884年にヴィルヘルムが死去した時、ドイツ帝国はエルンスト・アウグストのブラウンシュヴァイク公位継承を却下、公国は君主不在のまま皇族のアルブレヒト・フォン・プロイセンを摂政に置き、アルブレヒトの死後はヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルクを摂政の地位に就けた。

ブラウンシュヴァイク公位の復活は1913年、元ハノーファー王太子の同名の息子エルンスト・アウグストドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の娘ヴィクトリア・ルイーゼと結婚したことで実現したが、第一次世界大戦末期の1918年ドイツ革命が発生、ドイツ帝国が滅亡するとエルンスト・アウグストも僅か5年で退位、ブラウンシュヴァイク公国はヴァイマル共和政の下ブラウンシュヴァイク自由州となった。

歴代君主

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版図

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ブラウンシュヴァイク公国の版図
ブラウンシュヴァイク公国の版図

旧ハノーファー王国中部に領土は分散していた。東部はプロイセン領ザクセン州に隣接、西部はヴァルデックやプロイセン領ヴェストファーレン県と国境を接していた。