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藤原組

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プロフェッショナルレスリング藤原組(プロフェッショナルレスリングふじわらぐみ)は、かつて存在した日本プロレス団体

歴史

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1991年1月、選手会主体で再発足した第2次UWFであったが経営方式を巡って所属選手とフロントの対立が原因で解散。その中でも前田日明に距離を置いていた選手が中心に集まり、どこの派閥にも属していなかった藤原喜明が、その若手選手達を活かせてやりたいと新たなプロレス団体を設立することを発表[1]3月4日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。また、UWFの象徴であったカール・ゴッチが最高顧問に就任。設立当初の団体名は新UWF藤原組(しんユー・ダブリュー・エフふじわらぐみ)と称した後、団体名をプロフェッショナルレスリング藤原組(プロフェッショナルレスリングふじわらぐみ)に改称。UWFでレフェリーとブッカーを担当していたミスター空中が藤原組のレフェリーとブッカーを担当することになり、UWF時代のアメリカでの招聘ルートは藤原組に引き継がれた。3月13日、藤原組のメインスポンサーであるメガネスーパーが設立したSWSとの業務提携を発表[2]

1992年4月19日東京体育館大会で船木誠勝対元ボクシング4階級王者のロベルト・デュランによる異種格闘技戦を実現させたことで話題を呼んだ。10月4日東京ドーム大会を開催。11月、格闘技的な路線を志向する船木誠勝鈴木みのるらと藤原の間で溝が深まる。12月、船木、鈴木、冨宅祐輔高橋和生柳澤龍志、練習生の国奥道明稲垣一成が退団してパンクラスの設立を発表[3]。船木が後に語ったところでは秋頃に藤原から「来年はメガネスーパーが契約してくれないかもしれない」としてSWS[4]との合流を検討していることを告げられてしまい、鈴木を解雇するという話にまで発展して船木が反対したところに藤原が「もうダメだな」と事実上の解散を決めたという[5]。所属選手が藤原と石川雄規だけになってしまう危機に見舞われるが、逆に2人だけという状況がファンの支持を受けて崩壊の危機を乗り越えて従来のUWFを薄めつつ純プロレスに接近する路線へ転換。メガネスーパーがメインスポンサーから降りるも新人選手も次々とデビューして苦しいながらも存続させていた。

1995年、スポンサーが一部の所属選手を除き大幅なリストラを提言したことで藤原を除く所属選手全員が退団することを発表。11月19日横浜文化体育館大会を最後に藤原を除く所属選手全員が退団。12月、石川らが格闘探偵団バトラーツの設立を発表。

現在はプロレス団体としては機能しておらず、藤原の個人事務所「藤原組(ふじわらぐみ)」になっている。

所属選手

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歴代所属選手

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歴代スタッフ

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来日外国人選手

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脚注

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  1. ^ 後日、藤原喜明は「当初はクーデター騒動を機にプロレスから身を引こうかとも考えていた」と語っている。
  2. ^ 実質的に藤原組はメガネスーパーの傘下団体となり、その縁でSWS谷津嘉章を仲介役として東欧諸国のレスリング選手を招聘していた。
  3. ^ 格闘技通信 pp4 - 7
  4. ^ この時点でSWSは既に崩壊している。
  5. ^ 船木誠勝が語る藤原組離脱 「北尾八百長発言」SWS騒動に左右され…またも後味の悪い結末」『東京スポーツ』2021年6月13日。2021年6月18日閲覧。