コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ボーセジュール砦の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボーセジュール砦の戦い
フレンチ・インディアン戦争

1755年のシグネクト地峡周辺の地図
1755年6月3日 - 1755年6月16日
場所現在のカナダニューブランズウィック州サックヴィル近く
北緯45度51分55.83秒 西経64度17分26.85秒 / 北緯45.8655083度 西経64.2907917度 / 45.8655083; -64.2907917座標: 北緯45度51分55.83秒 西経64度17分26.85秒 / 北緯45.8655083度 西経64.2907917度 / 45.8655083; -64.2907917
結果 イギリスの勝利
衝突した勢力
フランス王国の旗フランス王国
ミクマク族
アカディア
グレートブリテン王国の旗グレートブリテン王国
指揮官
ルイ・デュポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴ ロバート・モンクトン
戦力
海兵隊162
アカディア軍300
陸軍兵270
ニューイングランド植民地民兵2,000
被害者数
戦死8
負傷6
戦死4
負傷16
ボーセジュール砦の位置(ニューブランズウィック州内)
ボーセジュール砦
ボーセジュール砦
ニューブランズウィック

ボーセジュール砦の戦い(英 Battle of Fort Beauséjour、仏 Bataille de Fort Beauséjour)は、フレンチ・インディアン戦争中の戦闘である。シグネクト地峡を戦場に行われ、ル・ルートル神父戦争en:Father Le Loutre's War)の幕を閉じた。フレンチ・インディアン戦争は、戦闘から、イギリスが攻撃に転じ、最終的には、フランス北アメリカ支配に終止符を打つことになる。この戦いはまた、大西洋沿岸地域の植民地のあり方を一新することにもなり、現在のニューブランズウィックの土台を築いた。[1]

1755年6月3日に戦闘が開始され、イギリス陸軍の中佐のロバート・モンクトンは、ボーセジュールの近くにあるローレンス砦から、フランスの駐屯隊が守るボーセジュール砦を包囲し、最終的に、シグネクト地峡をイギリスの下に置いた。地峡をイギリスに取られたことで、フランスにとってはかなりの痛手を受けた。海が凍る冬の間は、ここが、ケベックルイブールとボーセジュールをつなぐ唯一の道だったからだ。[2]

概要

[編集]

ボーセジュール砦への奇襲により、イギリスは、北アメリカでのより大きな主導権を握ることになった。この時期、陸上で、フランスの砦に対して三方面からの攻撃が行われた。オハイオ盆地のデュケーヌ砦シャンプラン湖からリシュリュー川の流域地帯、そして三つ目の攻撃が、このボーセジュール砦だった。[3]

戦闘

[編集]

1755年6月2日、イギリス陸軍中佐ロバート・モンクトンは、イギリス陸軍兵270人(第43歩兵連隊)と、ニューイングランド植民地民兵2,000人を載せた31隻の輸送艦、3隻の軍艦と共にカンバーランド盆地に入った。ミサカシュ川の河口にをおろし、イギリス兵は敵の妨害を何ら受けずに上陸した。近くの(東に3キロの場所)ローレンス砦の交易所を集結地として、オーラック・リッジの頂上へと進軍した。フランス軍指揮官の侯爵ルイ・デュポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴは、これに対して、165人の駐屯兵を補強すべく、直ちにアカディアの民兵と、フランスと連合したインディアン部族招集した。また、アカディアの建築物に火をつけて、イギリス軍のに略奪されるのを阻止した、ルイブールとセントジョン川の砦にも援軍を送った。[4]

1755年当時のボーセジュール砦と聖堂

6月13日には、イギリス軍はボーセジュールに十分接近しており、モンクトンは13インチの臼砲で砲撃を開始した。駐屯軍の指揮官であったヴェルゴは、2週間の間包囲戦によく耐えたが、人数で勝るイギリスに対し、少人数のフランス軍は、現実的になすすべを持たなかった。フランス人聖職者ジャン=ルイ・ル・ルートルも、この戦闘中、イギリスに対戦すべく、軍に加入していた。[5]

6月16日、イギリスの臼砲が砦の壁を破壊し、駐屯軍がかなりの損失を受けた。この戦闘では、記録されている戦死者はイギリスが4人、フランスとその同盟軍が8人で、負傷者はイギリスが16人、フランスと同盟軍は6人だった。[6] ヴェルゴは降伏し、その翌日、イギリス軍は、ボーセジュール砦に続いてガスペロー砦をも手に入れた。[7] この後ル・ルートルは捕えられ、8年間の獄中生活を送った[8]。アカディア軍の指導者ジョゼフ・ブルッサールはなおも戦いを続けた[9]

イギリス支配とアカディア人追放

[編集]
戦いの前、1754年当時のアカディア

イギリスの勝利と、フランスの駐屯兵の降伏とで、アカディアから大勢のフランス兵が移動し、奥地をイギリスに明け渡した。それは、ここに住むアカディア人に、悲劇に追い込むことになった。フランス語をしゃべるアカディア人の一部は、砦をめぐるフランスとイギリスの抗争には、中立を誓っていたが、アカディア人がこの誓いを破って参戦したことは、ハリファクスのイギリス人士官には受け入れがたいものであり、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスは、ボーセジュールでの、このアカディア人の規則違反を理由に、アカディア人の追放を命じた。モンクトンと遠征軍とにより、この命令は実行に移され、多くのアカディア人が、土地財産を没収された[10] 追放により、現在のカナダ大西洋岸から、アメリカ合衆国までの地域のアカディア人の入植地が、同じ方針を取った。アカディア人は13植民地やヌーベルフランスに離散し[10]、アカディアン(アカディア人)という単語は、後に、ルイジアナで訛り、ケイジャンという単語となった。[11]

ボーセジュール砦は、カンバーランド砦と名を改められた。後のアメリカ独立戦争中に、植民地軍の攻撃を受けたが、撃退した。この砦は1835年までイギリスの管轄下に置かれていた。[12]

脚注

[編集]
  1. ^ Hand, p. 102
  2. ^ Hand, p. 13
  3. ^ Hand, p. 36
  4. ^ Stephen Patterson. Colonial Wars and Aboriginal Peoples. p. 142
  5. ^ Hand, p. 68
  6. ^ この数字は、参考文献の著者ハンドの記録の数字を、表にしたものによる。pages 62, 79, 87
  7. ^ Battle of Fort Beausejour - Québec
  8. ^ 1755: History-Father Jean-Louis Le Loutre (1709-1772)
  9. ^ 1755: History-Joseph Broussard dit Beausoleil (c. 1702-1765) Archived 2009年5月20日, at the Wayback Machine.
  10. ^ a b 木村和男 『世界各国史 23 カナダ史』 山川出版社、1999年、106頁。
  11. ^ http://www.merriam-webster.com/dictionary/cajun
  12. ^ Fort Beauséjour

参考文献

[編集]
  • Hand, Chris M. (2004), The Siege of Fort Beausejour 1755, Fredericton: Goose Lane Editions/New Brunswick Military Heritage Project, ISBN 0864923775