マリー・アデライード・ド・サヴォワ
マリー・アデライード・ド・サヴォワ Marie Adélaïde de Savoie | |
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フランス王太子妃 | |
マリー・アデライード・ド・サヴォワ (1698年) | |
在位 | 1711年 - 1712年 |
出生 |
1685年12月6日 サヴォイア公国、トリノ |
死去 |
1712年2月12日(26歳没) フランス王国、ヴェルサイユ |
埋葬 | フランス王国、サン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | フランス王太子ルイ |
子女 |
ルイ ルイ ルイ15世 |
家名 | サヴォイア=ブレッセ家 |
父親 | サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世 |
母親 | アンナ・マリーア・ドルレアンス |
マリー・アデライード・ド・サヴォワ(Marie Adélaïde de Savoie, 1685年12月6日 - 1712年2月12日)は、フランス王太子(ドーファン)ブルゴーニュ公ルイの妃。フランス王ルイ15世の母。サヴォイア公(後に初代サルデーニャ王)ヴィットーリオ・アメデーオ2世と王妃アンナ・マリーア(オルレアン公フィリップ1世の娘)の長女。イタリア語名はマリア・アデライーデ・ディ・サヴォイア(Maria Adelaide di Savoia)。妹マリア・ルイーザはブルゴーニュ公の弟であるスペイン王フェリペ5世の最初の妃となっている。
生涯
[編集]1697年にルイ14世の長男ルイ(王太子、グラン・ドーファン)の長男で又従兄にあたるブルゴーニュ公ルイと結婚した。トリノをめぐって対立していたフランスとサヴォイアが、和解のしるしに取り決めた縁談だった[1]。
11歳でフランス宮廷に入ったマリー・アデライードは、美人とは言えないが、表情ゆたかな金髪の少女で、愛くるしい黒い目は思わず引き込まれてしまう魅力を持っていた。彼女の快活さと人なつっこさはフランス宮廷に活力をあたえ、宮廷の大人たちは、活発な少女を追い回して楽しんだ。
マリー・アデライードは食事中にいきなり椅子に上がって踊りだしたり、料理を手づかみで食べて周囲の者を慌てさせることもあった。彼女の人となりについて、オルレアン公妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールはこう書いている。 「ブルゴーニュ公妃はとても悪い癖がつきました。馬車に乗ると一分と同じ場所にじっとしていないのです。絶えずこちらの隅からあちらの方へと動き回り、小猿のように飛び回ることしかしないのです」「あるときは、朝5時に走り回り、周囲の者はなんでも聞き入れます。そればかりか彼女を誉めそやすのです。そのうち、なんでもいいなりになるでしょう」
マリー・アデライードはマントノン夫人を「おばさま」と呼んで甘えていた。マントノン夫人に手を引かれて、夫人の行くところになら何処へでもついていった。 ルイ14世に対しても物おじすることなく、まるで友達のような口のきき方をし、前触れもなく国王の執務室に飛び込んで、机の上の書類をめちゃめちゃにしたり、いきなり膝の上に乗って国王の頬に接吻の雨を降らせた[2]。そんなマリー・アデライードをルイ14世は大変可愛がって甘やかしたが、その成長と共に、彼女のために用意する子供っぽい遊びを止め、舞踏会やオペラ・コンサートを催して、孫の嫁に感謝の気持ちを示すようになった[3]。
政略結婚であったが夫との仲は睦まじく、2人の間には3男が生まれた。1704年に生まれた長男は1歳に満たずに夭折したが、1707年に次男、1710年に三男が生まれている。
1711年にグラン・ドーファンが死去したため、代わって夫が王太子に立てられた(プチ・ドーファンと呼ばれる)。しかし翌1712年に天然痘(あるいは麻疹)が一家を襲い、2月12日にマリー・アデライードが、2月18日にブルゴーニュ公が、3月8日に次男が相次いで死去した。難を逃れた三男が1715年、曾祖父ルイ14世の死後にルイ15世として即位した。
子女
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 戸張規子『ブルボン家の落日 ヴェルサイユの憂愁』人文書院、1991年