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マリエル難民事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリエル事件から転送)
マリエル難民事件
ボートに乗るキューバ人難民
日付1980年4月15日から1980年10月31日 (6ヶ月2週2日間)
関係者コスタリカ政府
キューバ政府
ペルー政府
アメリカ政府
キューバ国民
ハイチ国民
結果12万5千人のキューバ人難民と2万5千人のハイチ人難民のアメリカへの移住

マリエル難民事件(マリエルなんみんじけん、あるいはマリエル・ボートリフト、: Mariel boatlift)は、1980年4月15日から同年10月31日にかけて、キューバマリエル港からアメリカに大量の難民が渡ったことによる一連の経済的・政治的危機のこと[1]。これによって発生した難民のことをマリアリート (Marielitos) と呼ぶ。この事件の元凶はキューバ経済における不況にあるが、1980年在ハバナペルー大使館危機が大量の難民発生の引き金となった[2]

概要

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1980年4月に、1万人ものキューバ人が難民申請の許可を求めてペルー大使館に押し入ると、キューバ政府はキューバを離れたいキューバ人は国を離れることができると宣言した。当時のキューバ大統領フィデル・カストロとの協定の下、キューバ系アメリカ人によって大量移住が組織された。大量の難民の到来は当時のジミー・カーター政権にとって政治的試練をもたすこととなった。難民の一部はキューバで投獄されていたり精神疾患を抱えて入院していた者であったため、カーター政権は難民への対応に苦労した。1980年10月下旬にキューバ政府と米政府が新しく協定を結んだことによって米国への新たな難民の到来はなくなることになる。それまでの期間、12万5千人ものキューバ人がフロリダに渡った。

原因

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1980年春に、南アメリカ諸国の大使館に難民申請を求めてキューバ人が現れるようになる。1978年3月21日、レイノルド・ピネダ (Reynaldo Colas Pineda) とエステバン・フンケラ (Esteban Luis Cárdenas Junquera) という2人のキューバ人記者がハバナアルゼンチン大使館からの難民申請の不許可に異議を唱えたことから2年間投獄される[3]。1979年5月13日には、12人のキューバ人が、ハバナのベネズエラ大使館に車で強制突入して難民としての認可を求める[4]。1980年1月、キューバ人の集団がペルー大使館とベネズエラ大使館に押し寄せ、ベネズエラ政府は大使を自国に呼び戻す事態に発展する[5]。同年3月には、ペルーも大使を自国に呼び戻す[6]。これらの一連の事件が遠因となって、1980年在ハバナペルー大使館危機に発展する。

難民の到来

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マリエル難民事件中の月次の
キューバ人難民の数[7]
到来数 (#) 累積 (%)
4月 (21日以降) 7,665 6
5月 86,488 69
6月 20,800 17
7月 2,629 2
8月 3,939 3
9月 3,258 3
合計 124,779 100

航空輸送

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はじめ、難民は、最終的に難民受け入れ国に移住することを条件にコスタリカに航空輸送された。しかし、それが報道されるとキューバ政府は難民は直接難民受け入れ国に移送されなければならないという条件を設定した。この航空輸送で7千500人のキューバ人がキューバを離れた[8]

海上輸送

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4月20日、カストロは、受入国がある場合に限りキューバ人がマリエル港から出国することを認める[9]。4月21日、48人の難民を乗せた最初の船がフロリダのキーウェストに到着する。4月25日には300人のキューバ人を乗せた船がマリエル港を離れる。キューバの漁船も難民をキーウェストまで輸送した[10]

ハイチからの難民もマリエル難民事件以前から米国に渡っていたが、マリエル事件中も軍艦等によりアメリカに渡った[10]

脚注

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  1. ^ Calderón Urtecho, Félix C. (2002) Alerta roja! Fugitivos en La Habana. Historia de la invasión a la Embajada del Perú en 1980.
  2. ^ Verdon, Lexie. "Thousands in Cuba Ask Peruvian Refuge", The Washington Post
  3. ^ Ripoll, Carlos (14 May 1979). “Dissent in Cuban”. New York Times. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1979/11/11/111748930.pdf 22 March 2016閲覧。 
  4. ^ “Cubans Seek Asylum in Caracas”. New York Times. (11 November 1979). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1979/05/14/111024781.pdf 22 March 2016閲覧。 
  5. ^ “Venezuela Recalls Envoy to Protest Cuba Incident”. New York Times. (21 January 1980). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1980/01/21/111136184.pdf 22 March 2016閲覧。 
  6. ^ Thomas, Jo (6 April 1980). “2,000 Who Want to Leave Cuba Crowd Peru's Embassy in Havana”. New York Times. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1980/04/06/111226839.pdf 22 March 2016閲覧。 
  7. ^ 出所: Council for Inter-American Security.
  8. ^ Peña, Susana (2013). Oye Loca: From the Mariel Boatlift to Gay Cuban Miami. University of Minnesota Press. ISBN 978-0-8166-6554-9. オリジナルの2 February 2021時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210202091355/https://books.google.com/books?id=Lu5zDwAAQBAJ July 13, 2019閲覧。 
  9. ^ Tamayo, Juan O. (20 November 2008). “Chronology of the Cuban Revolution”. Miami Herald. オリジナルの8 May 2016時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160508144257/http://www.miamiherald.com/news/special-reports/cuban-revolution/article1930512.html 7 May 2016閲覧。 
  10. ^ a b The Mariel Boatlift of 1980”. www.floridamemory.com. 10 July 2019時点のオリジナルよりアーカイブ2019年7月13日閲覧。