マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン
マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン Marie Casimire Luise de la Grange d'Arquien | |
---|---|
ポーランド王妃 | |
| |
在位 | 1674年5月21日 - 1696年6月17日 |
出生 |
1641年6月28日 フランス王国、ヌヴェール |
死去 |
1716年1月1日(74歳没) フランス王国、ブロワ |
埋葬 | ポーランド・リトアニア共和国、ヴァヴェル大聖堂 |
配偶者 | キエフ県知事ヤン・ソビエパン・ザモイスキ |
ポーランド王ヤン3世ソビエスキ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ラ・グランジュ・ダルキアン家 |
父親 | アンリ・アルベール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン |
母親 | フランソワーズ・ド・ラ・シャトル |
サイン |
マリー・カシミール・ルイーズ・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン(Marie Casimire Luise de la Grange d'Arquien, 1641年6月28日 - 1716年1月1日)は、ポーランド王ヤン3世ソビエスキの王妃。ポーランド語名ではマリア・カジミェラ(Maria Kazimiera)と呼ばれ、マリシェンカ(Marysieńka)の愛称で知られた。
生涯
[編集]フランスの貴族アンリ・アルベール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン侯爵の娘として、ヌヴェールで生まれた。5歳の時、ポーランド王ヴワディスワフ4世へ輿入れするルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガに侍女として同行し、ポーランドへやってきた。1656年に宮廷へやってきたヤン・ソビエスキと出会うが、2年後マリーは共和国最有力の貴族の一人であるキユフ県知事ヤン・ソビエパン・ザモイスキと結婚した。ザモイスキと1665年に死別すると、同年7月にヤン・ソビエスキと再婚した。
1672年にヤン・ソビエスキはポーランド王に選出されるが、マリーの影響なしには叶わなかったといわれる。ポーランド王妃として、マリーはフランスの親族が特権を得られるようルイ14世に要求し、またフランスとの同盟関係締結に奔走した。ヤンとマリシェンカの仲睦まじさは、1665年から1683年の間に交わした多くの恋文によって知られている。ヤンの戦争による不在、マリーの私的パリ訪問などの間に書かれたもので、2人の死後に出版された。
夫が晩年になって長男ヤクプ・ルドヴィクを後継の国王にしようと画策し始めると、マリシェンカはこれに反対し、娘婿のバイエルン選帝侯マクシミリアン・エマヌエルを支持したが、新王に選ばれたのはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト(アウグスト2世)であった。マリシェンカは1716年、母国フランスのブロワで亡くなった。
子女
[編集]マリア・カジミェラは1658年にヤン・ソビエパン・ザモイスキと結婚し、娘を2人もうけたが、1665年に死別した。子供たちはいずれも夭折した。
- ルドヴィカ(1659年)
- カタジナ(1660年 - 1662年)
1665年に王冠領宮内長官(後にポーランド王)のヤン・ソビェスキと結婚し、8人の子供をもうけたが、うち4人が夭折した。
- ヤクプ・ルドヴィク(1667年 - 1737年)…1691年、プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘ヘートヴィヒと結婚
- テレサ・テオフィラ(1670年)
- アデライダ・ルドヴィカ(1672年 - 1677年)
- マリア・テレサ(1673年 - 1675年)
- テレサ・クネグンダ(1676年 - 1730年)…1695年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルと結婚
- アレクサンデル・ベネディクト(1677年 - 1714年)
- コンスタンティ・ヴワディスワフ(1680年 - 1726年)
- ヤン(1683年 - 1685年)