ミルコ・ジュロヴスキー
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(ミルコ・ジュロヴスキから転送)
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名前 | ||||||||||||||
ラテン文字 | Milko DJUROVSKI | |||||||||||||
キリル文字 | Милко Ѓуровски | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | 北マケドニア | |||||||||||||
生年月日 | 1963年2月26日(61歳) | |||||||||||||
出身地 | テトヴォ | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | FW | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1980-1986 | FKレッドスター | 115 | (54) | |||||||||||
1986-1990 | FKパルチザン | 70 | (39) | |||||||||||
1990-1992 | FCフローニンゲン | 57 | (23) | |||||||||||
1993 | SCカンブール | 7 | (0) | |||||||||||
1993-1994 | FCフローニンゲン | 14 | (5) | |||||||||||
1994-1995 | ニーム | 4 | (0) | |||||||||||
1995-1996 | NKジェリズニチャル | |||||||||||||
2005-2006 | NKオリンピア・リュブリャナ | 1 | (0) | |||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1984-1985 | ユーゴスラビア | 6 | (2) | |||||||||||
1994 | 北マケドニア | 3 | (0) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
2006-2007 | NKナフタ | |||||||||||||
2007-2008 | NKマリボル | |||||||||||||
2008 | FKヴァルダル | |||||||||||||
2009 | FKバレシカ | |||||||||||||
2010 | NKドラヴァ・プトゥイ | |||||||||||||
2012 | ペラウ | |||||||||||||
2015 | FC ViOnズラテー・モラフツェ | |||||||||||||
2015 | NKザヴルチ | |||||||||||||
2016 | FKスラビア | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ミルコ・ジュロヴスキー(マケドニア語: Милко Ѓуровски[1]、1963年2月26日 - )は、ユーゴスラビア出身の元同国代表、元マケドニア共和国代表のサッカー選手、指導者。
兄のボスコ・ジュロヴスキーとともにレッドスター・ベオグラードの中心選手として8年間活躍。1984年からはユーゴスラビア代表にも選出され、ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。
1986年に同じ都市に本拠を置くライバルクラブであるパルチザン・ベオグラードへ移籍。パルチザンのファンからは歓迎を受けたが、レッドスターのファンは彼を裏切り者と非難した。パルチザン退団後はFCフローニンゲン、ニーム・オリンピックと西側諸国のクラブを渡り歩き、スロベニアでのプレーを最後に引退。
引退後はNKナフタ・レンダヴァで指導者としてのキャリアをスタートさせたが、成績は低迷。2007年ホームのNKドムジャレ戦にて0対6と大敗した後に解任された[2]。2009-10シーズンはマケドニア2部FKバレシカの監督を務めた[3]。
息子のマリオ・ジュロヴスキーも同じく元マケドニア共和国代表サッカー選手[4]、指導者である。