コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ハイム・ルムコフスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲットー住民に配給されるスープの味を見ているルムコフスキ

モルデハイ・ハイム・ルムコフスキ(Mordechaj Chaim Rumkowski、1877年2月27日 - 1944年8月28日)は、ウッチ・ゲットーユダヤ人評議会議長を務めていたユダヤ系ポーランド人ホロコースト犠牲者である。

生涯

[編集]

ロシア帝国支配下のヴォルィーニに商人の息子として生まれる。20世紀初頭にウッチに赴き、高給家具製造に携わった後に保険代理店を経営。第一次世界大戦終了後はユダヤ人孤児院の運営に携わったが、余り目立った存在でもなく1939年まで表に出てくる事はほとんどなかった。1939年10月13日ドイツ占領当局の引き立てで、急遽ウッチのユダヤ人評議会議長に就任した。ユダヤ人評議会を組織したが、11月11日には評議会メンバーが逮捕され、ルムコフスキも虐待を受けた。その後、評議会メンバーを再組織した[1]

ウッチ・ゲットーで流通していた紙幣
ルムコフスキの署名が入っている

1940年4月、ウッチ・ゲットーが創設される。その日常的運営はルムコフスキ以下ユダヤ人評議会にゆだねられた。ウッチ・ゲットーでは、他のゲットーと比べてユダヤ人評議会の権限が非常に大きかった。そのためルムコフスキには巨大な統率権があり、その下にウッチ・ゲットーでは統制経済が取られていた。ゲットー内のあらゆる経済活動はユダヤ人評議会がコントロールしていた。ゲットー内にはルムコフスキのサイン入りの紙幣や肖像画の入った切手まで出回っていた。ルムコフスキを「ウッチ・ゲットーの独裁者」と表現する書も多い[2][3][4]

しかしゲットー内では絶対的な存在であるルムコフスキもゲットー外のドイツ当局(ウッチ市役所のゲットー局長ハンス・ビーボウなど)の指示には一切逆らえなかったし、逆らおうとしなかった。「内弁慶」のルムコフスキはゲットー住民の憎しみを一身に集め、ゲットー内にはデモハンガー・ストライキといった形でルムコフスキへの抵抗運動が頻繁に行われた。1940年8月にはユダヤ人評議会指揮下のゲットー警察だけでは取り締まれなくなり、ゲットー外のドイツ当局の助力を得てようやく鎮圧している。しかし9月にはデモが再開し、9月半ばにはルムコフスキーが路上で襲撃を受けるという事件まで発生した。他のゲットーでもユダヤ人評議会に対する批判活動はみられたが、ここまで激しかったのはこのウッチ・ゲットーのみである[5]

1941年6月15日にはウッチ・ゲットー視察に訪れた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと会見した。ヒムラーはルムコフスキに「これからもゲットーの兄弟のために尽くしたまえ。きっと彼らのためになるだろう。」と述べた[6]

1942年1月から1942年9月にかけて行われた「労働不能」と看做されたウッチ・ゲットー住民のヘウムノ絶滅収容所への大量移送にもルムコフスキは抗わなかった。ルムコフスキはゲットー警察にドイツ当局の移送に協力させ、多くの同胞たちを死の収容所へと追いやることとなった。ルムコフスキは1942年9月4日の演説でこう語った。

昨日ゲットーから二万人余りを移送しろという命令が私に告げられた。しかし我々は『何人を救うことができ、何人を失うか』といった考えに囚われているのではなく、『何人を救う事ができるか』という考えに囚われているのであって、我々―すなわち私と私の同僚―は、たとえどんなに辛くとも、この運命を自らの手で引き受けねばならない、という結論に達した。私はこの辛く血の出るような作戦を執行しなければならない。私は胴体を救うために、手足を切断しなければならないのだ。諸君の前には打ちのめされたユダヤ人がいる。これは私がこれまで実行しなければならなかった命令の中でも、最も辛い命令である。私は疲れ果てて震える手を諸君に差し出し、請う。『諸君の身柄を私の手に預けてくれ。さらなる犠牲者を防ぐために。ユダヤ人10万人の人々を救うために。』[7]

1942年中の移送によって16万人いたウッチ・ゲットーの人口は8万人にまで減少した。その結果、ウッチ・ゲットーの住民のほとんどが労働者となり、ゲットーはドイツ当局にとって重要な生産基地として1944年8月まで存続を許された。しかし、ソ連赤軍が接近してくると、ウッチ・ゲットー住民の移送が再び始まり、1944年8月にはウッチ・ゲットーは解体されてしまった。この際にルムコフスキ以下のユダヤ人評議会も解散され、1944年8月末にルムコフスキとその家族もアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送された。アウシュヴィッツに到着後すぐに同地で殺害された[8][9]

参考文献

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ ヴォルフガング・ベンツ著『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)63ページ
  2. ^ ヴォルフガング・ベンツ著『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)60ページ
  3. ^ 栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)72ページ
  4. ^ マイケル ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)172ページ
  5. ^ 栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)73ページ
  6. ^ グイド・クノップ著『ホロコースト証言 ナチ虐殺戦の全体像』(原書房)188ページ
  7. ^ ヴォルフガング・ベンツ著『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)64ページ
  8. ^ マイケル ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)178ページ
  9. ^ 栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)202ページ