ディヌ・リパッティ
ディヌ・リパッティ Dinu Lipatti | |
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基本情報 | |
出生名 | Constantin Lipatti |
生誕 |
1917年3月19日 ルーマニア王国、ブカレスト |
死没 |
1950年12月2日(33歳没) スイス、ジュネーヴ郊外 |
学歴 | ブカレスト国立音楽大学 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト、作曲家 |
担当楽器 | ピアノ |
レーベル | EMI |
ディヌ・リパッティ(Dinu Lipatti, [ˈdinu liˈpati] ( 音声ファイル), 1917年3月19日 - 1950年12月2日)は、ルーマニアのピアニスト、作曲家。
経歴
[編集]1917年3月19日ブカレスト生まれ。父はテオドル・リパッティ (Theodor Lipatti)、母はアナ・ラコヴィチェアヌ(Ana Racoviceanu)。ディヌが生まれた時、父親は別の女性と結婚していた。両親が結婚したのは1921年。ディヌの名付け親はジョルジェ・エネスク。
1934年-1939年パリ在住。パリのエコールノルマル音楽院でアルフレッド・コルトーやポール・デュカスに教えを受ける。
1939年から1943年にかけてローマ、ウイーン、ベルリン、ブラチスラバ、ソフィアでコンサート。
1943年に婚約者のマドレーヌ・カンタクジノ(Madeleine Cantacuzino)とストックホルムでのコンサートのためにルーマニアを離れる。以来二度と母国に戻らなかった。1944年からスイスに住んだ。
1950年9月16日、ブザンソン音楽祭でリサイタルを行い、これが最後の公開演奏となる。同年12月2日、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。死因は白血病といわれることが多いが、実際はホジキンリンパ腫である。
人物
[編集]作曲についてはアルベール・ルーセルとナディア・ブーランジェに師事しており、作品を自作自演で残してもいる。
母は1950年9月にディヌを見舞うためスイスに行くことを許され、そのままスイスに亡命した。
ディヌの弟のヴァレンティン・リパッティはブカレスト大学でフランス文学を教えた後、1964年に外交官になった。
音楽について
[編集]彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである。純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。ショパンやモーツァルトなどを得意とした。ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。
作品リスト
[編集]- ツィガーヌ(オーケストラのための組曲)1934年
- 古典風なコンチェルティーノ作品3(ピアノと室内オーケストラのための)1936年
- 協奏交響曲(2台のピアノと弦楽オーケストラのための)1938年
- 左手のためのソナチネ(ピアノ曲)1941年
- ルーマニア舞曲集(2台ピアノ、ピアノと管弦楽の2版あり)
文献
[編集]- Hommage à Dinu Lipatti. Labor & Fides, Genf 1952. (Enthält größtenteils Hommages von bekannten Musikern in Französisch, Deutsch und Englisch)
- Dragos Tanasescu, Grigore Bargauanu: Lipatti. Kahn & Averill, London 1988, ISBN 0-912483-18-0.
- Monika Jäger: Das kompositorische Werk von Dinu Lipatti als Teil der europäischen Moderne. Universität Osnabrück, Osnabrück 2010, epOs-Music, ISBN 978-3-940255-12-9.
脚注
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