レスター・コルバート
レスター・ラム・コルバート(Lester Lum Colbert、1905年 - 1995年9月15日)は、クライスラーの社長、会長として知られた、アメリカ合衆国の経営者、弁護士[1][2]。テキサス州出身であったことから、テックス・コルバート(Tex Colbert) と通称された[1][2]。
経歴
[編集]テキサス州オークウッドに、綿花商人の息子として生まれたコルバートは、テキサス大学を経てハーバード大学のハーバード・ロー・スクールに進み、1929年にJ.D.を取得した[1]。
駆け出しの弁護士として、ニューヨークの弁護士事務所で働いていたコルバートは、顧客のひとりであったクライスラーの創業者ウォルター・クライスラーの目にとまり、1933年にクライスラーに引き抜かれて労務担当役員となって、デトロイトへ移った[1][2]。第二次世界大戦がはじまると、社長であったK・T・ケラーの指示を受けて製造工程の実務を夜学で学んだ[1]。1943年には、当時B-29のエンジンを製造していたダッジのシカゴ工場の責任者となり、戦後はダッジ部門の代表者となった[1][2]。
1950年にケラーの指名により後任の社長となり[1][2]、さらに1960年4月には会長となったが[3]、1961年には会長職から退いた[1][2]。コルバートがクライスラーを率いた時期は、工場の分散化を通した拡張や販売の国際化戦略が進められ、クライスラーの絶頂期であったとも評されている[2]。『タイム』誌は1951年1月29日付では単独で[4]、1958年5月12日付ではGMのハーロー・カーティス、フォードのヘンリー・フォード2世とともに、コルバートを表紙で取り上げた[5]。しかし、他方では、業績不振や退任した役員との裁判闘争、家族の株式取引などを巡ってコルバートは株主たちから批判を浴び、最後は退任を強いられる形で会長職を辞任することになった[1][2]。
その後もクライスラーのカナダの子会社の会長職にとどまっていたが、1965年にはそれも引退した[1][2]。
引退後は、石油やガス関連事業への投資をおこなっていたが、1970年に妻に先立たれた後は、フロリダ州ネイプルズに移り住み、最期は1995年9月15日に、ネイプルズの自宅で死去した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Freudenheim, Milt (1995年9月19日). “Lester Lum Colbert, 90, Chief At Chrysler During the 1950's”. New York Times 2019年1月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Donnelly, Jim. “Tex Colbert”. Hemmings Classic Car (November 2014) 2019年1月25日閲覧。
- ^ Grist, Peter (2014-10-09). Virgil Exner: Visioneer: The official biography of Virgil M. Exner, designer extraordinaire. Veloce Publishing Ltd. pp. 126. "On 28th April 1960, amidst falling sales, Tex Colbert, Ex's main supporter at Chrysler, handed over the presidency to William C Newberg as he move up to the position of Chairman" Google Books
- ^ “Lester Lum Colbert | Jan. 29, 1951”. Time Inc.. 2019年1月25日閲覧。
- ^ “Harlow Curtice, Henry Ford & Lester Colbert | May 12, 1958”. Time Inc.. 2019年1月25日閲覧。