1958年一代貴族法
英: Life Peerages Act 1958 | |
正式名称 | An Act to make provision for the creation of life peerages carrying the right to sit and vote in the House of Lords. |
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法律番号 | 6 & 7 Eliz. 2 c. 21 |
日付 | |
裁可 | 1958年4月30日 |
他の法律 | |
改正 | 2005年憲法改革法 |
現況: 現行法 | |
法律制定文 | |
改正法の改訂条文 |
1958年一代貴族法(1958ねんいちだいきぞくほう、英語: Life Peerages Act 1958)は、現代イギリスにおける一代貴族の制度を設立した法律。
背景と経緯
[編集]1957年から1964年までの保守党内閣期、ハロルド・マクミランの首相在任中に制定された法律であり、このときの女王エリザベス2世は即位から6年目であった。保守党は貴族院の議員人数と会議出席率の低下を受けて、貴族院の正当性を上げるために改革を推進し、一代貴族を導入しようとした。これに対し、労働党は第二読会で法案に反対、党首ヒュー・ゲイツケルは演説で貴族院を廃止するか、議員を全て選挙で選出するといった抜本的な改革をすべきと提唱した[1]。結局、1958年4月2日の第三読会での採決では賛成292、反対241で成立した[2]。
内容
[編集]制定された時点の一代貴族法は下記の通り[3]。
貴族院に出席しかつ評決に加わる権利を伴う一代貴族創設のための措置に伴う法律(An Act to make provision for the creation of life peerages carrying the right to sit and vote in the House of Lords.)
- 第1条(貴族院に出席しかつ評決に加わる権利を伴う一代貴族創設のための権限)
- 1項 常任上訴裁判官任命に関する国王陛下の権限を毀損することなしに、国王陛下は勅許状により本条第2項に掲げる資格を伴う一代限りの貴族の身分を何人にも授与することができる。
- 2項 本条に基づいて貴族の身分を取得する者はその者の生存中に限り(a)勅許状によって任命される形式の男爵の爵位、および(b)貴族院に登院すべき招集状を受け貴族院に出席しかつ評決に加わる資格を得、その者の死亡と共に当該身分を喪失するものとする。
- 3項 女性も本条に基づいて一代貴族の身分を取得できる。
- 4項 本条に基づいて取得した貴族院に登院すべき招集状を受け貴族院に出席しかつ評決に加わる権利は、その取得者が法によって無資格者となった時は直ちに失われるものとする。
- 第2条(略称)
- 本法は1958年一代貴族法(Life Peerages Act 1958)として引用される。
その後、2005年憲法改革法により貴族院の司法機能が廃止され、常任上訴貴族の創設が停止されたことに伴い、第1条1項の「常任上訴裁判官任命に関する国王陛下の権限を毀損することなしに」が削除された[4]。
影響
[編集]1958年一代貴族法が成立する以前の貴族院には女性議員がおらず、聖職貴族や1876年上訴管轄権法で設立された常任上訴貴族[5]など一部の例外を除いて、世襲称号の保有に伴う議員就任がほとんどであった。しかし、一代貴族法の第1条2項と3項により、女性も一代貴族として貴族院議員に就任でき[3]、女性が貴族院議員になれるようになったのはこれが初めてである[6]。第1条2項により、一代貴族は常に男爵(英語では男性がBaron、女性がBaroness)で、終身貴族院議員であるが、子女が一代貴族の爵位を継承することはできない[3]。世襲貴族の創家に必要な根拠を満たすことは難しかったが、一代貴族法により一代貴族の創設が可能になったことでイギリスの首相は貴族院の党派構成を変更することが可能になり、世襲貴族が貴族院の大多数を占めるという状況も徐々に改善されていった。
最初の女性貴族院議員は1958年10月21日に就任した[7]。
一代貴族法が成立する前、元首相、インド総督、すぐれた軍部やフロントベンチャーといった人物はその貢献への表彰として、世襲貴族の伯爵や子爵に叙されることが多かったが、マーガレット・サッチャー首相期の1984年にハロルド・マクミランがストックトン伯爵に叙されるのを最後に、王族を除く世襲貴族への叙爵は途絶えた。
1999年、世襲貴族の憲制上の権限のほとんどを廃止する1999年貴族院法の弁論において、労働党のジェフ・フーンは「労働党は1958年の論争で負けた。1958年一代貴族法による改革は第二院の運営への改革の第一段階として成功を収めた。歴史は1958年の労働党が間違っており、保守党内閣が正しかったことを証明したのです」と発言した[1]。
関連項目
[編集]出典
[編集]- ^ a b Hansard HC Deb 16 March 1999 vol 327 cc932-99 at c983
- ^ "LIFE PEERAGES [LORD]". Parliamentary Debates (Hansard). House of Commons. 2 April 1958. col. 1296–1297.
- ^ a b c "Life Peerages Act 1958 - As enacted". legislation.gov.uk (英語). 2020年1月26日閲覧。
- ^ "Life Peerages Act 1958 - Revised". legislation.gov.uk (英語). 2020年1月26日閲覧。
- ^ "Appellate Jurisdiction Act 1876 - As enacted". legislation.gov.uk (英語). 2020年1月26日閲覧。
- ^ 前田英昭『イギリスの上院改革』木鐸社、1976年、3頁。ASIN B000J9IN6U。
- ^ "A Changing House : the Life Peerages Act 1958" (英語). 2008年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年3月18日閲覧。