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小弁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一宮小弁から転送)

小弁(こべん、正体字:小辨、生没年不詳)は、平安時代後期の女流歌人祐子内親王家小弁(ゆうしないしんのうけのこべん)・一宮小弁(いちのみやのこべん)・宮の小弁(みやのこべん)とも呼ばれる。祐子内親王家紀伊の母。

藤原南家巨勢麻呂流の正五位下越前守藤原懐尹の娘で、母は越前守源致書女という[1]後朱雀天皇の皇女祐子内親王(高倉一宮)に仕えた。

長元5年(1032年)の上東門院菊合、長久2年(1041年)の源大納言歌合永承4年(1049年)の六条斎院歌合、永承5年(1050年)の祐子内親王家歌合などの歌合に出詠し、また物語『岩垣沼の中将』(いわがきぬまのちゅうじょう、通称「岩垣沼」)を著して天喜3年(1055年)の六条斎院五月三日物語歌合に詠進しているが、散逸して伝わらない。

家集もあったが[2]、やはり散逸して伝わらない。『後拾遺和歌集』以降の勅撰和歌集に47首入集している。また源経信から歌を贈られたことがある。

娘の祐子内親王家紀伊の父親については、散位平経重とも[3]、あるいは従五位上民部大輔平経方[4]とも伝わり、またこの両者を同一人物とする見方もあるが、定説はない。

代表作
  • 山桜心のままにたづねきてかへさぞ道のほどは知らるる(『後拾遺和歌集』91)
  • ひきすつる岩垣沼のあやめ草おもひしらずも今日にあふかな(『後拾遺和歌集』875)
  • さ夜ふけて衣うつなり我ならでまだ寝ぬ人はあらじと思ふに(『玉葉和歌集』757)

出典

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  1. ^ 『後拾遺集勘物』より。
  2. ^ 夫木抄』などに記述がある。
  3. ^ 『勅撰作者部類』による。
  4. ^ 尊卑分脈』による。

参考文献

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