三浦権五郎
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保4年5月9日[1](1833年6月26日) |
死没 | 明治36年(1903年)11月17日 |
改名 | 正之助(幼名)→為質→権五郎 |
別名 | 権五郎(通称) |
墓所 | 了法寺(和歌山県和歌山市) |
官位 | 従五位下長門守、従五位[2]男爵 |
主君 | 徳川斉順→斉彊→慶福→茂承→明治天皇 |
藩 | 紀州藩家老→和歌山藩権大参事 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 | 父:三浦為章、母:岡田上芳の娘 |
兄弟 | 辰之助、興之丞、嘉之丞、権五郎、水野正義 |
妻 | 正室:木下利愛の六女・はる |
子 | 養女:為、養子:次郎、三七 |
三浦 権五郎(みうら ごんごろう)は、江戸時代後期から末期(幕末)にかけての紀州藩家老。三浦長門守家第8代当主。官位は従五位下長門守。爵位は男爵。明治維新後に名乗った権五郎は通称であり、諱は為質(ためもと)である。
生涯
[編集]天保4年(1833年)5月9日[1]、紀州藩家老・三浦為章の四男として生まれる。幼名は正之助。天保12年(1841年)3月、名を為質(ためもと)と改め、父の死去により同年4月7日に家督と知行1万5,000石を相続したが、まだ9歳という若年であったため家老の矢部某が傅役を務めた[3]。弘化3年(1846年)7月26日に和歌山城の天守曲輪が落雷で焼失すると、翌27日まで混乱する城下町の警衛の任に当たった。弘化5年(1848年)5月1日、藩主・徳川斉彊に初めて拝謁し、同年5月27日には斉彊を烏帽子親として和歌山城で元服の儀が行われた[3]。
嘉永5年(1852年)9月には江戸に出府し、同年10月15日に江戸城で第12代将軍・徳川家慶と将軍世子・徳川家定に拝謁。同年12月16日に長門守に叙任した後[3]、12月26日に江戸を発ち、翌嘉永6年(1853年)1月22日に和歌山に帰国。同年5月には備中足守藩主・木下利恭の妹(先代藩主・木下利愛の娘)と婚姻[3]。嘉永7年(1854年)に異国船が測量のため和歌山近海に出没すると、雑賀崎など沿岸部の警衛を務めた。文久2年(1862年)12月に江戸に出府し、翌文久3年(1863年)2月16日に江戸城で紀州帰国の命を拝する。同年3月1日に江戸を出発するが、帰国途中に京都で7日間滞在。京都滞在中は中川宮に拝謁したり、近衛家や鷹司家を訪問したりした後、藩主・徳川茂承に従って参内している[4]。同年3月25日に和歌山に帰国。
明治元年(1868年)に律令制の廃止とともに長門守などの国司も廃止されたため、以後は権五郎(ごんごろう)を名乗る[3]。明治2年(1869年)10月16日に和歌山藩権大参事に任官したが、翌明治3年(1870年)8月に病を理由に辞任した[3]。明治7年(1874年)10月に権五郎は旧和歌山藩士の中心となって藩祖・徳川頼宣を祀る神社の創建運動を始め、同年11月に南龍神社の創建が許可されると、明治9年(1876年)1月15日には南龍神社の社司となった[3]。
明治10年(1877年)には第四十三国立銀行(現在の紀陽銀行)設立の発起人となり、翌明治11年(1878年)に開業。初代頭取は養子の三七が務めた。明治17年(1884年)11月28日、教部省の権中講義に任官[3]。明治30年(1897年)には旧藩士によって設立された徳義社の議長となる。明治33年(1900年)5月9日に特旨を以て華族に列し、男爵に叙される。
明治36年(1903年)11月17日、死去。家督は離籍した三七の長男・英太郎が相続した。
栄典
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『三浦系図伝 完』(和歌山県立図書館所蔵)
- 『人事興信録(初版)』 人事興信所、1903年、1019頁。
- 維新史料編纂会編 『現代華族譜要』 日本史籍協会、1929年、631頁。
- 秀英舎編 『華族名鑑』 秀英舎、1902年、93頁。
- 水野慶次編 『華族大系』 系譜社出版部、1914年、874頁。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (紀州藩家老)三浦家初代 1900年 - 1903年 |
次代 三浦英太郎 |