浅利鶴雄
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(三田英児から転送)
浅利 鶴雄(あさり つるお、1899年10月29日 - 1980年4月15日)は、東京府出身の演劇プロデューサー、俳優である。
来歴
[編集]明治中学を経て、1922年(大正11年)、慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業[1][2]。1924年(大正13年)、小山内薫、友田恭助、和田精、汐見洋、土方与志とともに新劇の専門劇場である築地小劇場を創立。後に松竹に移り、俳優として「三田英児」の名でサイレント映画に出演。松竹では社長秘書などの他、プロデューサーを務め、2代目左団次が行った歌舞伎界初のソ連公演には秘書として参加。また、戦前・戦後を通し一時代を築いた浅草国際劇場の初代支配人に就任し、こけら落としではチャップリンを招聘。松竹歌劇団の育ての親のひとりとも言われた。
家族・親族
[編集]- 浅利家
- 母・浅利たけ[3]。ふく助という名の芸妓で、政治家大岡育造の側室として大岡龍男(俳人、三省堂、NHK社員、1892年生)をもうけ、その後、実業家の小林八郎との間にも男児をもうけた[4][5][6]。たけの孫に七尾伶子がいる[4]。
- 妻・フサエ(東京、田辺元三郎の姉)[7]
- 1907年 -
- 親戚
脚注
[編集]- ^ 『慶応義塾総覧 昭和4年』第十九章 卒業生89頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月18日閲覧。
- ^ 『慶応義塾塾員名簿 昭和4年版』塾員名簿あノ部731頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月18日閲覧。
- ^ 小林清一郞 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b 文芸雑誌『文体』(第1~3巻)平凡社、1977年、p13-14
- ^ 大岡 龍男(読み)オオオカ タツオコトバンク
- ^ 大岡育造 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b 『人事興信録 第12版 下』タ71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月18日閲覧。
参考文献
[編集]- 慶応義塾編『慶応義塾塾員名簿 昭和4年版』慶応義塾、1924-1942年。
- 慶応義塾編『慶応義塾総覧 昭和4年版』慶応義塾、1929年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
- 『日本映画俳優全集(男優編)』キネマ旬報社、1979年。