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中村元恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村 元恒(なかむら もとつね、安永7年11月11日[1]1778年12月29日) - 嘉永4年9月3日[1]1851年9月27日))は江戸時代後期の医師、儒者。は中倧[1]、蕗原翁、不用舎、希月舎。通称は中書[1]。字は大明[1]、成甫[1]。幼名は紋弥[1]。初名は奛。中村元起は次男。中村弥六は孫にあたる。

生涯

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信濃国伊那郡本郷村[1](現・長野県上伊那郡飯島町)に医師の中村元茂(伯先、淡斎)の長男として生まれる[1]。父に医学を学び、寛政4年(1792年)に坂本天山に入門し儒学を学ぶ[1]。同13年(1801年)、上洛して中西鷹山に古医方を、猪飼敬所に儒学を学ぶ。享和2年(1802年)に帰郷し、文化5年(1808年)同郡大出村(現・箕輪町)に移って家塾「不用舎」を開いて儒学と医学を教える。同7年(1810年高遠藩に藩医兼藩儒として仕官し、師の天山の学説たる「実学」を奨励した。嘉永2年(1849年)藩内の開墾事業を巡る政争に連座して領内の黒河内村に流され[1]、同4年(1851年)に没したが、その後赦免された。

子の元起とともに、郷土地誌の集大成「蕗原拾葉」を編纂した。大正7年(1918年)に従五位を遺贈された[1][2]

著作

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  • 「蕗原拾葉」
  • 「周易衍註」
  • 「周易衍翼」
  • 「易学源流論」
  • 「毛詩通解」
  • 「信濃史奇談」
  • 「伊那史略」
  • 「箕輪記」

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『信濃人物誌』314頁。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.46

出典

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  • 村沢武夫『信濃人物誌』信濃人物誌刊行会、1962年。
  • 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
  • 『日本人名大辞典』講談社 2001年。