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井上政蔽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井上政蔽
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文元年(1661年
死没 正徳6年3月1日1716年4月22日
改名 虎之助・宮内(幼名)、政蔽
戒名 義山日登玄悟院
墓所 東京都文京区白山の浄心寺→染井霊園
官位 従五位下筑後
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継
下総高岡藩
氏族 井上氏
父母 父:井上政清、養父:井上政則
兄弟 内記政蔽政式坪内定重正室、
野々山元易
正室:毛利就隆
政鄰忠郷(次男)、正豊(三男)、政経(四男)、正森(六男)、久保勝政養女、
鳥居成昭室、大沢基貫養女、松前端広室、飯塚昭之養女、渋江胤直室(井上政武養女)、座光寺為慮
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井上 政蔽(いのうえ まさあきら)は、はじめ1000石の旗本。のちに下総高岡藩3代藩主。

寛文元年(1661年)、2代藩主・井上政清の次男として生まれる。長兄に内記がいたため、1000石の旗本であった叔父・井上政則の養子となり、寛文9年(1669年)に家督を継いで旗本となった。しかし内記が早世したため、家督を井上政強に譲り、自らは高岡藩に戻って世子となった。延宝3年(1675年)に父が死去したため家督を継いだ。このとき、弟の政式に1500石を分与したため、高岡藩は1万1500石から1万石になった。延宝4年(1676年)12月、従五位下、筑後守に叙位・任官する。

延宝9年(1681年)8月、駿府城加番に任じられる。元禄3年(1690年)7月には大坂加番に任じられ、元禄8年(1695年)には日光祭礼奉行に任じられるなど、諸役を歴任した。

正徳6年(1716年)3月1日に死去した。享年56。跡を長男の政鄰が継いだ。

先に1500石分与させた弟で旗本の政式の次男であった井上正敦は、常陸下妻藩主の井上正長の養子となってその跡を継いだ。

系譜

[編集]

父母

正室

子女