井出台水
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(井出治から転送)
井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29日(慶応元年4月5日[1]) - 1950年(昭和25年)8月1日[2])は、岡山県出身の日本の俳人、陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。旧姓・佐々。別号に彭洋。
経歴
[編集]岡山藩(現・岡山県赤磐市)で佐々寅三の二男として生まれる[3]。少年時代から父の影響で定型俳句を始めるも、軍人の道を進んだ。陸軍監督長・井出正章の養嗣子となり[3]、1899年(明治32年)1月に家督を相続した[3]。
1886年6月25日、工兵少尉に任官[4]。1889年11月2日、工兵中尉に昇進し、1894年7月31日に経理部へ転科し監督補となる[1][4]。陸軍経理学校卒業後、陸軍省経理局建設課長、陸軍主計監・第18師団経理部長、近衛師団経理部長、朝鮮駐剳軍(朝鮮軍)経理部長等を歴任。1916年8月18日、待命となり、1917年1月17日、予備役編入と同時に陸軍主計総監にまで上り詰めた[1][5]。
日露戦争に従軍した際に、軍人仲間で『拍車会』という句会を結成し、以降、荻原井泉水や河東碧梧桐らの指導を受けるようになる。とくに碧梧桐の門下で新傾向俳句、のちに自由律俳句に傾倒。中塚一碧楼が主宰した海紅の同人となり、異色の自由律俳人かつ軍人となった。海紅を去って以降の碧梧桐が主宰した『碧』や『三昧』にも参加し、風間直得の提唱したルビ俳句も詠んでいる。1921年(大正10年)に満州の地で自由律俳句結社、『アカシア会』を結成、大陸に日本の自由律俳句を広めようと尽力した。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
句集など
[編集]- 『台水口調』(個人句集)
- 『現代俳句集』(1929年・改造社)台水の句、30句を収録
親族
[編集]- 妻 益子(板倉勝弘長女)[3]
- 長男(養子)の宣時も陸軍大学校第29期生(首席)で父と同じく陸軍中将となり、旅順要塞司令官を務めた。次男の洋も陸軍士官学校52期生で陸軍少佐として太平洋戦争を生き延び、戦後、陸上自衛隊において陸将、少年工科学校(現在の高等工科学校)校長となった、軍人一家である。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治45年7月1日調』川流堂、1912年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 上法快男監修/外山操編『陸海軍将官人事総覧』芙蓉書房、1968年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 日外アソシエーツ編『人物レファレンス事典 文芸篇』(2010年)
- 吉備路文学館『吉備路文学館 文学者データベース』