亜細亜映画
種類 | 不明 |
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市場情報 | 消滅 |
略称 | 亜細亜映画 |
本社所在地 |
日本 大阪府交野郡牧野村 (現在の同府枚方市牧野本町1-10) |
設立 | 1934年 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の製作 |
代表者 | 白井戦太郎 |
主要株主 | 白井戦太郎 |
関係する人物 | 近衛十四郎 |
特記事項:略歴 1934年 設立 同年 第一映画社と改称 同年 解散 |
亜細亜映画(あじあえいが)は、かつて存在した日本の映画会社である。映画監督の白井戦太郎が1934年に設立し、大阪府下に撮影所を構えた[1]。同年6月、第一映画社と改称したが、撮影所が同年9月の台風で損壊し、解散した。3作の剣戟映画を製作した。亜細亜映画旭ヶ丘撮影所についても本項に詳述する。
データ
[編集]北緯34度50分29.94秒 東経135度40分12.79秒 / 北緯34.8416500度 東経135.6702194度
略歴・概要
[編集]奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所(右太プロ)で映画監督としてのキャリアを積んだ白井戦太郎が独立し[2]、1934年(昭和9年)に設立したのが亜細亜映画である[1]。株式会社等の法人か、白井の個人事業かは明らかではない。同年、大阪府交野郡に撮影所を建設、亜細亜映画旭ヶ丘撮影所とした[1]。
設立第1作は、それまで京都市郊外の日活太秦撮影所の端役俳優であった当時20歳の近衛十四郎を主演俳優として抜擢し、白井の右太プロ時代の同僚脚本家・御荘金吾のオリジナル脚本を採用、白井が自ら監督をして製作したサイレントの剣戟映画『叫ぶ荒神山』を同年4月に発表した[2]。同年5月には、同様の布陣で『曲斬海道旅』を製作、発表した[2]。
同年6月、社名を第一映画社と改称、近衛の主演第3作『天保からくり秘帖』を製作、発表したが、興行的には不首尾であった。同年9月には、室戸台風が同地を襲い、撮影所は壊滅した[1]。撮影所の再建も、新作の製作もおぼつかなく、同年中に解散した[1]。翌1935年(昭和10年)、白井と近衛は、東京にある大都映画に移籍した[2]。
この「第一映画社」は、1934年9月に京都で永田雅一が設立し、第一映画撮影所を開所した第一映画とは無関係である。
関係する人物
[編集]スタッフ
[編集]俳優
[編集]フィルモグラフィ
[編集]いずれも1934年製作、白井戦太郎監督、近衛十四郎主演作、サイレント映画である。
- 亜細亜映画
- 第一映画社
- 『天保からくり秘帖』 : 1934年6月