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スペイン人民戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人民戦線政府から転送)
スペインの旗 スペイン政党
人民戦線
Frente Popular
指導者 マヌエル・アサーニャ
成立年月日 1936年1月
解散年月日 1939年3月
解散理由 スペイン内戦の敗北
本部所在地 スペインの旗 スペイン マドリード
政治的思想・立場 社会主義進歩主義共和主義反ファシズム
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人民戦線(じんみんせんせん、スペイン語:Frente Popular)は、1936年から1939年までスペインにて存続した社会主義連合政権。首班はマヌエル・アサーニャ

経緯

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1931年4月の1931年4月12日地方自治体選挙スペイン語版により共和派が勝利、ブルボン朝アルフォンソ13世が退位すると、共和派農民労働者知識人は当時のソ連の繁栄の影響を受け、社会主義政権発足を目指し始めた。 当時スペイン国内に散在していた共産党をはじめとする左派政党をまとめ上げ、1936年2月16日総選挙スペイン語版右派を抑えて勝利[1]、左翼共和党のマヌエル・アサーニャを首班とする挙国一致内閣を成立させた。これは、フランスレオン・ブルム政権とともに、ソ連がコミンテルンを通じて各国の共産党に社会主義勢力や自由主義勢力との連合政権樹立を指示した人民戦線戦術の成功例であった。

これに反対する陸軍を中心とする軍部、右翼、地主、旧貴族、王党派、カトリック教会などの保守階級はエミリオ・モラスペイン語版准将を首謀者として当時ポルトガル亡命していたホセ・サンフルホスペイン語版中将を推し、ナショナリスト軍英語版(反乱軍)を結成、1936年7月18日スペイン領モロッコにて人民戦線政府に対し反乱を起こす。これを受け、カナリア諸島に左遷されていたフランシスコ・フランコ師団将軍メリリャに革命本部を置き、軍を掌握してスペイン本土各地でも陰謀に加わった将校が蜂起、またたく間にスペイン全土に反乱は拡大した。共和国側は結局首都マドリードバルセロナなどでの蜂起の鎮圧には成功したものの、ナバーラセビリヤガリシア、アフリカの植民地は反乱軍に押さえられてしまい、事態はクーデターから内戦に発展してしまった。こうしてスペイン内戦が開始された。

反乱が発生した翌7月19日、左翼共和党のサンティアゴ・カサーレス・キローガ首相が辞任。時局収拾を図るために共和連合のディエゴ・マルティネス・バリオが首相に就任したが、1日も政権を維持することができなかった。その日のうちに再び左翼共和党からホセ・ヒラル・ペレイラが首相に立ち組閣を行った[2]が、混乱を収めることはできなかった。

同年8月中旬には、全土の大半が反乱軍の勢力下となり、首都マドリードも包囲された[3]。同年11月7日、反乱軍が市内に突入して市街戦になり、政府機能がバレンシアに退避した[4]。この間、同年9月4日にバスク地方イルン陥落を期にホセ・ヒラル・ペレイラ内閣が総辞職、スペイン社会労働党からフランシスコ・ラルゴ・カバジェーロが首班となり第四次人民戦線内閣が成立した[5]

ソビエト連邦をはじめ、世界各国の社会主義政党、共和派、反ファシズム勢、国際旅団の援助を受け人民戦線はしばらくは持ちこたえたものの、ブルム政権が短命に終わった後のフランスや、人民戦線政府内で勢力を拡大しつつあったスペイン共産党を嫌ったイギリスアメリカ合衆国は不介入を決定した。一方、ファシズム政権の誕生を期待したドイツイタリアなどのファシズム国家の大量の軍事支援を受けた反乱軍は、圧倒的軍事力で人民戦線を壊滅に追い込む。

その後、拠点の一つであったカタルーニャ地方バルセロナが陥落したことで1939年2月に人民戦線政府は国外に亡命、4月にナショナリスト軍は首都のマドリードを攻め落とし内戦は終結した。

人民戦線の敗因は社会主義政党間の不和や寄せ集めの軍備[注釈 1]で対抗したことなどで、その後に多くの課題を残した。

政党

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脚注

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  1. ^ 総選挙で人民戦線派が勝利『東京朝日新聞』昭和11年2月18日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ スペイン領モロッコで反乱発生『大阪毎日新聞』昭和11年7月19日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306)
  3. ^ 全土の大半が反乱軍の手に帰す『大阪毎日新聞』昭和11年8月12日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p307)
  4. ^ 反乱軍がマドリッドに突入『大阪毎日新聞』昭和11年11月8日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p308)
  5. ^ 北部要衝イルン陥落、ヒラール内閣辞職『大阪毎日新聞』昭和11年9月6日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p306)
  1. ^ ボーイング社がスペイン政府への売り込みのためにアメリカから回航し、不採用となった後にバラハスに留め置かれたままになっていたモデル 281の見本機さえもが徴用された。