施設 (仏教用語)
施設(せせつ、梵: prajñapti, プラジュニャプティ、巴: paññatti, パンニャッティ)とは、仏教で「仮の指定・設定」といった原義の語であり、「概念」を意味する語。仮設・仮説(けせつ)、説仮(せつけ)、仮名(けみょう)等とも。
下述するように、仏教では、ギリシア哲学(例えば、プラトンの『クラテュロス』の議論や、ユークリッドの『原論』における定義のあり方など)にも見られるように、言葉や概念は、社会的・世俗的な約束事として、仮に設定しているものに過ぎないという発想が、少なくとも部派仏教の段階では既に確立していた。そしてこれは、「二諦論」における片方の「世俗諦」(世俗・人間社会の真理)とも結合したものでもあり、仏教が主張する「世界の実相」としての「勝義諦」(真諦)と、対を成すものでもあった。
歴史
[編集]部派仏教
[編集]説一切有部の初期の論書(アビダルマ)である『六足論』の中には、概念説明論としての『施設論』(せせつろん、梵: Prajñapti-śāstra, プラジュニャプティ・シャーストラ)がある[1]。
分別説部、すなわち南伝上座部仏教に伝承される『パーリ語仏典』の論蔵にも、概念説明論としての『人施設論』(じんせせつろん、巴: Puggala-paññatti, プッガラ・パンニャッティ)が含まれている[2]。
また、大衆部から分岐した部派の中には、その名もずばり「説仮部」(せつけぶ、梵: Prajñaptivāda, プラジュニャプティヴァーダ)という部派がある。
大乗仏教
[編集]大乗仏教においては、中観派の祖・ナーガールジュナ(龍樹)によって、「相依性」(そうえしょう)に則った「無自称」「法空」、すなわち「法(ダルマ)すらも仮のもの」という考えが主張されたため、仮説(けせつ)・仮名(けみょう)と看做される領域が一挙に拡大・普遍化された。
その主張は、『中論』の、第24章18詩である、
「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無(空)なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」
(どんな縁起の法でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。)
に象徴的に示されている。