伊集院兼寛
伊集院 兼寛(いじゅういん かねひろ、天保9年1月2日(1838年1月27日) - 明治31年(1898年)4月20日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、官僚である。薩摩藩出身。通称は直右衛門。諱は兼寛。明治期に海軍少輔・元老院議官・貴族院議員を歴任。子爵。 実姉の須賀が嘉永5年(1852年)に西郷隆盛に嫁いでいる(安政元年(1854年)に離婚)。
経歴
[編集]幕末維新期
[編集]伊集院兼寛は天保9年(1838年)薩摩藩士伊集院直五郎兼善の嫡男として生まれる。幕末維新期の兼寛は西郷隆盛・西郷従道兄弟や大久保利通らとの関係が深く薩摩藩きっての行動派の一人として活躍する。文久2年(1862年)の寺田屋騒動に有馬新七の同志として討幕計画に参加するも藩主命令により帰順する。謹慎処分を受ける。文久3年(1863年)の禁門の変では斥候として参加。藩主より功賜金を賜る。同年の薩英戦争では決死隊の一員に加わる。戊辰戦争では東山道総督府参謀に任ぜられ各地を転戦する。
明治以降
[編集]明治4年(1871年)大蔵省に出仕。明治初期の会計制度の整備に尽力する。同6年(1873年)海軍省に入省。翌年11月5日に海軍少将兼海軍少輔に昇進[1]。台湾出兵の事務処理を手がける。同10年の西南戦争では四国方面の情勢探索活動に従事する。同11年(1878年)元老院議官に就任。同20年(1887年)5月24日、子爵を授けられ華族に列する[2]。同23年(1890年)帝国議会創設により同年7月10日、貴族院議員に就任し[3]、同30年(1897年)7月9日まで1期務める[3]。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。明治31年(1898年)4月16日勲一等瑞宝章を授与される。その4日後の4月20日に60歳で死去。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[8]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1898年(明治31年)4月16日 - 勲一等瑞宝章[10][11]
親族
[編集]登場作品
[編集]- テレビドラマ
脚注
[編集]- ^ 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』30頁。
- ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』35頁。
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 「甲1番大日記 式部寮達 真木少将外3名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111307100
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第4436号「叙任及辞令」1898年4月18日。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、129頁。
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 山崎有恒・尚友倶楽部編『伊集院兼寛関係文書』芙蓉書房出版、1996年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
公職 | ||
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先代 川村純義(→欠員) |
海軍少輔 1874年 - 1876年 |
次代 (欠員→)真木長義 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 伊集院(兼寛)家初代 1887年 - 1898年 |
次代 伊集院兼知 |