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佐久間健三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐久間長興から転送)

佐久間 健三郎(さくま けんざぶろう)は、江戸幕府の幕臣。別名:長興(おさおき)、後名:健叟(けんそん)[1]佐久間長敬原胤昭の父。江戸南町奉行所吟味方与力で、天保15年(1844年)時点で禄高は150石5人扶持[2]。「鬼」と綽名された[3][4][5][6]。後に処罰されることになった弘化2年(1845年)当時は、南町奉行所の四番組に属する与力だった[7]

略歴

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細谷平次兵衛の四男として生まれ、伯父である佐久間彦太夫の養子となる[2]

健三郎の次男・原胤昭によれば、健三郎の取り調べは、「審理に当つて詰問惨酷、激励大音、声を荒らヽげるに至つては、声音正しく往還通行人の耳を突ん裂く事があつた。その猛勢を聞き伝へ市民恐れ戦いて鬼とあざなした[注釈 1]」とある[3]

天保期に行われた印旛沼の堀割普請は、上司である南町奉行・鳥居耀蔵が責任者の1人となり、普請所の治安維持のため配下の与力・同心を遣わすことになった。健三郎は、同僚の与力・中田新太郎と原善左衛門、同心の小倉朝五郎、加藤太左衛門、小林藤太郎、大沢藤九郎、五島五郎兵衛、川上紋五郎らとともに普請所の見回りを担当することになった[8]

鳥居の失脚後、教光院事件における鳥居の審判に不審を抱きながら、それを見過ごしたことを責任に問われ、同僚の与力・原鶴円とともに30日の押込処分を受けた[4][6]

遠山景元が南町奉行に就任した翌月の弘化2年(1845年)4月19日に入牢となり、同年10月3日に「御暇」となった[注釈 2][6][9][10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『江戸文化』四巻八号。
  2. ^ 斎藤月岑日記』第三巻。

出典

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  1. ^ 佐久間 1967, pp. 273.
  2. ^ a b 佐久間 1967, pp. 274.
  3. ^ a b 南 2005, pp. 39–40.
  4. ^ a b 松岡 1991, pp. 119.
  5. ^ 安藤 2011, pp. 102, 113.
  6. ^ a b c 岡崎 2008, pp. 187.
  7. ^ 松岡 1991, pp. 149.
  8. ^ 鏑木 2001, pp. 25, 27, 40–41, 78–82, 86–87, 89, 92–95.
  9. ^ 鏑木 2001, pp. 233.
  10. ^ 佐久間 1967, pp. 115、274.

参考文献

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  • 安藤優一郞『江戸っ子の意地』集英社新書、2011年。ISBN 978-4-08-720592-3 
  • 岡崎寛徳『遠山金四郎』講談社現代新書、2008年。ISBN 978-4-06-287974-3 
  • 鏑木行広『天保改革と印旛沼普請』同成社、2001年。ISBN 4-88621-236-0 
  • 佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』人物往来社、1967年。 
  • 松岡英夫『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』中公新書、1991年。ISBN 4-12-101049-3 
  • 南和男『江戸の町奉行』吉川弘文館、2005年。ISBN 4-642-05593-2