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余晋龢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
余晋ワから転送)
余晋龢
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1887年光緒13年)
死去: 1947年(民国36年)1月21日
中華民国の旗 中華民国南京市
出身地: 清の旗 浙江省紹興府紹興県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 余晋龢
簡体字 余晋龢
拼音 Yú Jìnhé
ラテン字 Yü Chin-ho
和名表記: よ しんわ
発音転記: ユー・ジンホー
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余 晋龢(よ しんわ、1887年 - 1947年1月21日)は中華民国の政治家。中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会の要人で、北京特別市長を務めた。幼耕幼庚

事績

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日本に留学し、1906年光緒32年)、東京憲兵練習所を、1911年宣統3年)、陸軍士官学校をそれぞれ卒業した。帰国後は、陸軍部参事、憲兵学校教官を歴任している。1922年民国11年)、青島港政局局長に任ぜられた。

1931年(民国20年)2月、余晋龢は青島市政府で参事、公安局局長を務めた。1933年(民国22年)12月、北京特別市で公安局局長、参議、外交室主任となる。1935年(民国24年)12月、廈門市市長となった。しかし短期間で辞任し、翌年、国民政府外交部特派員に任ぜられた。

日中戦争(抗日戦争)勃発後、余晋龢は中華民国臨時政府に加わる。1938年(民国27年)1月5日、北京特別市市長兼警察局局長に特任された[1]。同年4月27日、臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)を兼任する[2]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、余晋龢は同委員会委員に特派され[3][4]、北京特別市市長にも重任した[5]1943年(民国32年)1月、華北政務委員会常務委員に昇格し、同委員会建設総署督弁に任命された。2月、全国籌堵黄河中牟決口委員会主任委員に、3月、全国経済委員会常務委員に、それぞれ任命された。

日本敗北後、余晋龢は天津蔣介石の国民政府に逮捕された[6]。漢奸として南京の首都高等法院で審理されていた最中に余は脳出血を発症したが、審理は続行されて1946年(民国35年)11月9日に無期懲役判決を受けた。まもなく病状は悪化し、翌1947年(民国36年)1月21日に(南京)鼓楼病院で死去した[7]。享年61。

脚注

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  1. ^ 臨時政府令、民国27年1月5日(『政府公報』第1号、民国27年1月17日、臨時政府行政委員会公報処、17頁)。
  2. ^ 臨時政府令、令字第192号、民国27年4月27日(『政府公報』第15号、民国27年5月2日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
  3. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  4. ^ 華北政務委員会の人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  5. ^ 『支那最近の状勢概觀』(東洋協会調査部調査資料第49輯)、1941年、東洋協会、12-13頁。
  6. ^ 余子道ほか 2006, p. 1614.
  7. ^ 王蔚「周仏海物傷其類的三人」騰訊網(原典:『南方周末』)2023.2.20

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王娟「自由学園北京生活学校の設立について」『鶴山論叢』第10巻、鶴山論叢刊行会、2010年3月、1-19頁、doi:10.24546/81002079hdl:20.500.14094/81002079ISSN 13463888CRID 1390572174880799232 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
中華民国臨時政府
先代
江朝宗
北京特別市長
1938年1月 - 1940年3月
次代
(汪兆銘政権に継続)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(臨時政府から継続)
北京特別市長
1940年3月 - 1943年1月
次代
蘇体仁
先代
殷同
華北政務委員会
建設総署督弁
1943年2月 - 11月
次代
(廃止)