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倉重アサコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倉重朝子から転送)

倉重 アサコ[1](くらしげ あさこ、1906年明治39年)5月19日[2][注 1] - 1985年昭和60年)2月22日[1])は、山口県徳山市にあった料亭「松政」の元・仲居

回天搭乗員との交流から「回天の母」とも呼ばれる[3]。なお、倉重アサ子倉重朝子という表記になっている出典もある。

来歴

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山口県美祢郡美東町で、農家の長女として生まれる。尋常小学校を出て「松政」に奉公[注 2]した後、一旦、結婚退職する[4]

1940年(昭和15年)、夫の病死にともない、31歳の時から「松政」で再び働き始める。徳山港海軍軍港だったこともあり、「松政」には海軍士官が度々訪れていた[4]

1944年(昭和19年)11月7日[5]板倉光馬少佐(大津島回天隊水雷参謀兼指揮官)の依頼により、「松政」で60人のすき焼き宴会の世話をした事が、回天搭乗員たちとの親交の始まりだったという。以後、若い予科練生徒たちから、『お重さんお母さん』と慕われた。「松政」では、第一回出撃(同年11月18日)前夜の壮行会も行われ、倉重は出撃する回天搭乗員たちに白い絹のマフラーを贈ったという[4]

終戦後の大津島・回天基地の部隊解散の日、生き残った搭乗員と初めて島に渡り、10年後の11月8日(最初の出撃記念日)に「松政」で再会することを誓い合った。その1955年(昭和30年)11月8日から毎年、大津島で慰霊祭を行うようになった。倉重は、住み込みだった「松政」の2階の自室に、夫の位牌と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』と戒名を施した戦没隊員の位牌を置き、朝夕手を合わせ供養を続けたという[6]

1971年(昭和46年)7月、「松政」閉店にともない、倉重は里に帰った。毎年11月の大津島の慰霊祭には欠かさず出席した[4]

1985年(昭和60年)2月22日、死去。

2012年(平成24年)12月19日、「回天の母 お重さんに感謝する会」によって、回天記念館の前庭にお重桜しだれ桜エドヒガン)が植樹された[3][5]

関連楽曲

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関連文献

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  • 産経新聞朝刊(大阪版では2007年6月5日-13日連載) 誰がために散る もう一つの「特攻」

脚注

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  1. ^ 週刊新潮『昭和の墓碑銘』新潮社(2006年)189-192頁では、1907年(明治40年)生まれと書かれている。
  2. ^ 「松政」で働いたのは、1926年大正15年)からという説もある。 (回天の母の思い引き継ぐ 記念館前に「お重桜」 山口新聞 2012年12月20日

外部リンク

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関連項目

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