コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原知家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
六条知家から転送)
 
藤原 知家
時代 鎌倉時代前期
生誕 寿永元年(1182年
死没 正嘉2年(1258年)11月
改名 知家→蓮性(号)
別名 大宮三位入道
官位 正三位中宮亮
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家末茂流六条藤家
父母 父:藤原顕家
母:院女房新大夫局(源師兼の娘)
兄弟 清家知家顕氏重継、尊家
九条行家知輔
テンプレートを表示

藤原 知家(ふじわら の ともいえ)は、鎌倉時代前期の公家歌人藤原北家末茂流、正三位藤原顕家の子。官位正三位中宮亮大宮三位入道等とも呼ばれる。新三十六歌仙の一人。

経歴

[編集]

建久4年(1193年従五位下に叙爵し、翌年美作守に任ぜられる。中務少輔左兵衛佐中宮亮などを歴任の後、承久元年(1219年従三位に叙せられて公卿に列し、寛喜元年(1229年)には正三位に至る。嘉禎4年(1238年)病により出家し、蓮性と称した。

歌人としては始め藤原定家に師事し[1]、『新古今和歌集』・『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて葉室光俊らと共に御子左派への対抗勢力を形成[1]。『蓮性陳状』によってその立場を主張した[2]

系譜

[編集]

作品

[編集]
勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
千載和歌集 新古今和歌集 藤原知家  1 新勅撰和歌集 正三位知家 12
続後撰和歌集 正三位知家 19 続古今和歌集 正三位知家 32 続拾遺和歌集 正三位知家 17
新後撰和歌集 正三位知家  4 玉葉和歌集 正二位知家  1 続千載和歌集 正三位知家  4
続後拾遺和歌集 正三位知家  3 風雅和歌集 正三位知家  3 新千載和歌集 正三位知家  3
新拾遺和歌集 正三位知家 11 新後拾遺和歌集 正三位知家  5 新続古今和歌集 正三位知家  6
百首歌・歌合
名称 時期 作者名表記 備考
宜秋門院詩歌会 建仁3年(1203年)7月27日
内大臣道家百首 建保3年(1215年
内裏名所百首 建保3年(1215年)
内裏百番歌合 建保4年(1216年
中殿和歌御会 建保6年(1218年
道助法親王家五十首 建保6年(1218年)
女御入内屏風和歌 寛喜元年(1229年
洞院摂政家百首 貞永元年(1232年
光明峯寺摂政道家歌合 貞永元年(1232年)
日吉社歌合 嘉禎元年(1235年)奉納 『知家入道自歌合』とも。判は藤原定家。
新撰六帖題和歌 寛元2年(1244年 家良為家・知家・信実光俊による題詠と相互加点[3]
春日若宮社歌合 寛元4年(1246年)12月 判者
後嵯峨院歌合 宝治元年(1247年)頃[* 1] 『蓮性陳状』の契機
私家集
  • 私家集は伝存しない。
歌論
  • 『蓮性陳状』
    • 後嵯峨院歌合(1247年(宝治元年)頃)における為家の判に対して真っ向からの反論を試み、後嵯峨院に提出したもの。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 陳状は、建長5年4月16日付となっている。

出典

[編集]
  1. ^ a b 『源承和歌口伝』
  2. ^ 位藤,田野,藤川他(参考文献)
  3. ^ 佐藤(参考文献)

参考文献

[編集]