佐々木泰綱
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(六角泰綱から転送)
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 建保元年(1213年) |
死没 | 建治2年5月17日(1276年6月30日) |
改名 | 泰綱、生西(法号) |
別名 | 三郎、六角泰綱 |
戒名 | 西光寺殿生西 |
官位 | 左衛門尉、壱岐守 |
幕府 | 鎌倉幕府 近江守護 |
主君 | 藤原頼経、頼嗣 |
氏族 | 近江源氏佐々木氏(六角氏) |
父母 | 佐々木信綱、川崎為重娘[1]? 北条義時娘? |
兄弟 | 重綱、高信、泰綱、氏信、藤原行方室 |
妻 | 足利氏? |
子 | 経泰[1]、頼綱[1]、佐々頼起、西條長綱[2]、鳥山輔綱[3][2] |
佐々木 泰綱(ささき やすつな)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。近江国守護。六角氏の祖ともいわれており、六角泰綱ともいわれる。
略歴
[編集]建保元年(1213年)、近江源氏佐々木氏の佐々木信綱と川崎為重の娘のあいだの三男として誕生[1]。
元仁元年(1224年)、鎌倉幕府に出仕して検非違使、左衛門尉、壱岐守に任じられた。文暦元年(1234年)、父の隠居により近江佐々木荘の領地を始め、六角東洞院にある京都屋敷を譲られ、家督を相続して近江守護となった。
ところが仁治3年(1242年)に父が死去すると、寛元元年(1243年)にかつて父から廃嫡された長兄の重綱が領地の配分をめぐって幕府に訴えを起こした。この訴えで泰綱は重綱に近江国内にある所領の一部を没収され、重綱に譲り渡されることとなる。ただし、家督に関しては泰綱の系統がそのまま相続することが認められた。
宝治元年(1247年)、宝治合戦では、北条方につくも何らかの混乱があった模様で嫡男の経泰を廃嫡している。なお、経泰は夢窓疎石の祖父とされる。[4]
後に家督を子の頼綱に譲って隠居し、出家して生西と号した。建治2年(1276年)5月17日に死去。
脚注
[編集]出典
[編集]- 黒板勝美『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』国史大系編修会(編)、吉川弘文館、1966年。ISBN 4642003649。