天ヶ城
天ヶ城 (宮崎県) | |
---|---|
城跡に建つ天ケ城歴史民俗資料館 | |
別名 | 内山城、高岡城、麓城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 伊東氏? |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 伊東氏(野村松綱・野村文綱)、島津氏(比志島国貞) |
廃城年 | 1615年(元和元年) |
遺構 | 曲輪、空堀[1] |
指定文化財 | 宮崎市指定史跡[2] |
再建造物 | 天ケ城歴史民俗資料館が城郭風建築として存在。 |
位置 | 北緯31度57分44.3秒 東経131度17分37.2秒 / 北緯31.962306度 東経131.293667度座標: 北緯31度57分44.3秒 東経131度17分37.2秒 / 北緯31.962306度 東経131.293667度 |
地図 |
天ヶ城(あまがじょう)は、宮崎県宮崎市高岡町内山にあった日本の城(山城)。別名高岡城(たかおかじょう)・麓城(ふもとじょう)。旧名内山城(うちやまじょう)。伊東四十八城の一つ。宮崎市指定史跡[2]。現在は天ヶ城公園として整備され、城郭風建築物の「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」が開設されている[3][4]。
概要
[編集]かつて「久津良名(くつらみょう)」と呼ばれた旧高岡町中心街の北東に位置する丘陵上に立地し、遺構は破壊を受けているが、本丸・二の丸など大きく6つの曲輪群で構成されていた[5]。また日向伊東氏の伊東四十八城であった当時は「内山城」と呼ばれていた。1577年(天正5年)末に城主・野村氏が伊東氏から造反すると、島津氏が当地を掌握する。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い以後、支配地域東端部の防衛を重要視した島津氏当主・島津義弘は、当城を「天ヶ城」と改名して比志島国貞を地頭に任命し、防衛にあたらせた。また山麓に島津氏ゆかりの地域からの武士730余戸を集住させたが[5]、これが薩摩外城制における高岡郷の起源となった。この後、1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となり、防城の武士たちは高岡の街に移り住んだ[2]。高岡の麓(ふもと)地区には現在も武家屋敷の門や石垣など、当時の街並みが残されている[6]。
城跡は1979年(昭和54年)1月24日に当時の高岡町の史跡に指定され、現在は天ヶ城公園となりサクラの名所として知られる[7]。また高岡地域の歴史を紹介する天守風建築の歴史博物館「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」がある[4]。
「天ヶ城運動公園のさくら広場」が、平成2年度手づくり郷土賞(花と緑の手づくりふるさと)受賞。
脚注
[編集]- ^ 宮崎県教育庁文化課 1998 p.18
- ^ a b c 「市指定史跡-130.天ヶ城址-」宮崎市公式HP
- ^ 「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」公益社団法人宮崎市観光協会公式HP
- ^ a b 「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」(公財)宮崎文化振興協会・宮崎市天ケ城歴史民俗資料館公式HP
- ^ a b 宮崎県教育庁文化課 1999 p.121
- ^ 「高岡天ヶ城麓地区のまちづくり」宮崎市公式HP
- ^ 「天ヶ城公園の桜」公益財団法人宮崎県観光協会公式HP
参考文献
[編集]- 宮崎県教育庁文化課 1998「地名表」『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書1(地名表・分布地図編)』宮崎県教育委員会 p.18
- 宮崎県教育庁文化課 1999「天ヶ城」『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書2(詳説編)』宮崎県教育委員会 p.121
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「市指定史跡」宮崎市公式HP