利用者:Uraniwa/砂場4
『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期の白河院政期[注釈 1]に成立したとみられる紀伝体の歴史物語である。
成立年代の研究
[編集]古くは江戸後期の伴信友が『比古婆衣』のなかで万寿3年(1026年)の成立としたが、保坂弘司によればこれも万寿2年を数え誤ったものである。
此書撰者の名を顕はさず、序文に匿名 を作り寓言して、作意を述たるものにして、ふと見てはきこえがたきを、つらつら読考ふるに、文徳天皇より今の帝までを十四代と云ひ、また嘉祥三年庚午の今歳までは、(文徳天皇の御世)一百七十六年ばかりにやなりぬらむといひ、又万寿三年雲林院の菩提講に、翁の物語せるを記せる由みえたるは、撰者の言にて、後一条院の御世いはゆる万寿三年にて、其年までの事を述作 せりときこえて、すなはち本文に合へり—伴信友『比古婆衣』[1]
一方、万寿2年以後の成立とする説も多くある。『尊卑分脈』に寂念(藤原為業)が『大鏡』を著したとする記述があったためである。『大日本史』や大石千引『大鏡短観抄』はこれを承けており、後者にはこの説を採った複数の文献が引用されている。
扨此ふみを世継物語といふ事は、『野槌』に「世継翁物語、一名大鏡、藤原為業法名寂念といへる人、世継の物語を作る、文徳天皇より後一条までの事、十四代百七十五年、帝王大臣等のことを記せり」とあり、『東見記』に「大鏡は世継翁物語ともいふ、藤為業法名寂念作、文徳より後一条までの事、十四代百七十五年、帝王大臣等の事を記す」云々、為業朝臣は『藤氏系図』に「木工頭為忠子、皇太后宮大進、為業法名寂念、世継作者」云々—大石千引『大鏡短観抄』[2](約物:引用者)
明治時代、荻野由之が『大鏡』のなかに『今昔物語』の影響を受けたと見られる誤謬があること、「藤原道長には諡号がない」と言及したと見られる箇所があること、藤原茂子(白河天皇の母となってから皇后に冊立されたはずである)を皇后として扱っているらしいことの三点を挙げ、本作が白河朝以後の作品であると主張した。藤岡作太郎はこれを受け、後冷泉天皇の誕生、源師房の栄達、禎子内親王の後三条天皇出産(いずれも万寿2年以後)を、予言のかたちで寓意するような記述を指摘して同調した。
1927年(昭和2年)、西岡虎之助が旧来どおりの万寿2年ごろの成立を唱えた。西岡によると『打聞集』(1134年ごろ)に本作が抄録され、すでに裏書があったことを鑑みると、それよりかなり前の作品であると考えられる。しかも後世の作だとすれば本文中に万寿2年以後の官職が多少なりとも混在するはずが、これがほとんどないという。ただ実際には、資料の多い高官はともかく、下級官僚や僧官についての誤謬は見られる。すなわち1933年(昭和8年)、山岸徳平が西岡に反論したところによると、本文中に扶公を山階寺別当、北野三位の子・朝源を律師、明尊を僧正、藤原資国を伊賀前司とする記述などがあり、いずれも万寿2年以後のものである。また先述の藤岡の指摘を顧みた上で、本文に『江談抄』(1104年 - 1108年ごろ)を参照した箇所があると主張し、永久・元永(1113年 - 1120年)ごろの成立を唱えた。同年平田俊春は本作を『栄花物語』と比較し、『大鏡』の方が後の成立であると断定した上で、本文中に「山階道理」(山階寺=興福寺の勢力があまりに強く、非道な主張も通ったこと)について述べた箇所があることから、藤原道長・頼通の時代にはこの道理はまだ見られなかったとして、寛治7年(1093年ごろ)以降、院政時代初期の成立を主張した。
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="注釈"/>
タグが見つかりません