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利用者:I-kaneko/下書き2

増岡広海
増岡広海 狂歌画像鯉鱗集より
誕生 増岡富次郎(幼名)
(1809-03-17) 1809年3月17日
武蔵国入間郡金子村(現在の埼玉県入間市金子地区)
死没 1893年4月18日(満84歳没)
国籍 日本
配偶者 藤井(旧姓)豊
子供 四男二女
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増岡広海(ますおか ひろみ、文化6年3月17日-明治26年4月18日)は、入間出身の俳諧、和歌、国学を極めた文人・教育者。 2歳の時、行者が増岡の家に立ち寄り、広海を一目見て「この子は将来一角の人物に」なるから、大切に育てよ」といったという。 そのため幼い頃より多才を極め、17歳より私塾にて教導にあたり、明治に入り、学制がしかれると教職にも就いた。一方では20代で家業を継ぎ商売に励むと同時に文芸への関心を持ち、その才能を俳諧、歌、国学にも発揮した。

増岡広海 年表
出来事
1809年 父 増岡磯衛門惟憲と母 ぎんとの間に生まれる。
1816年 7歳 同郷の秀伯主という人から難波津を習い始め、その後、増岡伊兵衛という近隣の寺子屋師匠に学ぶ。
1824年 15歳 [注釈 1]を保教と名のる。
1825年 16歳 富士山へ初登山、以後数十回の富士詣でを重ねる。
1826年 17歳 師 増岡伊兵衛が亡くなると同時に自ら子弟の教導にあたる。
1829年 20歳 藤井氏の娘 豊と結婚、名を正右衛門と改め家を継ぐ。
1868年以降 明治になってからは名を広海で相称した。
1889年 80歳 大日本帝国憲法発布を記念し、養老金を下賜された。
1893年 84歳 没

功績

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和歌・俳諧

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20歳で結婚、家業を継ぎ、それに熱心にいそしむ傍らで文芸への関心を持つ。商売先で知り合った青梅の小林綾繁(こばやしあやしげ)の門下に入り、俳諧・歌を学び、木綿園千緑または民年庵と号した。 俳諧についてはなお研究を極めるため、師を江戸に求め、両国山田氏二世、燕栗園千寿主の門下に入り、竜吟社と称した。

国学

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万葉集、古事記、古神道の研究に没頭し、特に本居宣長の学風を慕い、伊勢国、本居家の教えを受けた。この時名を広海と称するようになる。 子孫の生家には広海が読みふけた様々な和漢書が残されている。 老齢になっても国学研究を進め、その功により御嶽教庁より権中講義を拝命した。 神道の教導職として権少教正にまで進み、神道を説き諭した功労は数知れない。 その功もあり、明治33年12月に記念碑を建てる時、出雲大社の正三位勲三等男爵 千家尊福より碑文をいただいている。 記念碑は入間市上谷ヶ貫(かみたがぬき)西光院にある。[写真 1]

増岡広海翁碑
  1. ^ 上谷ヶ貫八幡山西光院境内にて撮影

教育

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私塾にて子弟を教導し、年々入門者が増え、教えを受けた人は500名を超している。 明治となり学制が敷かれ、金子地区に公教育が行われ、金子学校が設立された時には教師として在籍している。

事業

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産業振興にも力を入れ、広幅布を織出し、近隣の子女にその織り方を教えるとともに、家業の木綿糸商にも精出した。

晩年は独吟を楽しみ、年々勅題の歌を献詠した。

広海は父母の影響を受けて富士山を好み、自らも富士詣でを重ねただけでなく、死ぬまで富士山を遥拝し続けた。

「富士見れば いとゞ 恋しく 慕うかな

亡き 父母に あう 心地して」

と広海作の歌にもあるように、父母没後は一層富士山に心を寄せ、広海の塾舎[注釈 2]の中に富士山を望む一室が作られていた。 [1]

注釈

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  1. ^ いみな:この場合は本名を指す。
  2. ^ 塾舎は現在取り壊され、現存しない。

出典

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  1. ^ 入間市金子人物誌刊行会編 『金子人物誌』1970年 増岡広海39-48頁