太祖宥養理岱
表示
(利用者:SKM T KHR/sandboxから転送)
「太祖宥養理岱」は、ヌルハチ (後の清太祖) が渾河フネヘ部の兆佳ジョォギャ城を攻略した戦役。
経緯[編集]
「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」も参照
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/%E3%80%8E%E6%BB%BF%E6%B4%B2%E5%AF%A6%E9%8C%84%E3%80%8F%E5%B7%BB1%E3%80%8C%E5%A4%AA%E7%A5%96%E5%AE%A5%E9%A4%8A%E7%90%86%E5%B2%B1%E3%80%8D.jpg/300px-%E3%80%8E%E6%BB%BF%E6%B4%B2%E5%AF%A6%E9%8C%84%E3%80%8F%E5%B7%BB1%E3%80%8C%E5%A4%AA%E7%A5%96%E5%AE%A5%E9%A4%8A%E7%90%86%E5%B2%B1%E3%80%8D.jpg)
明万暦12年1584旧暦正月、ヌルハチは兆佳ジョォギャ城[注 1][1]主・李岱リダイ征討へ向け出兵したが、一行はその途上で大雪にみまわれ、噶哈ガハ嶺[注 2]に至ったところで進退困難となった。同行していた叔父や兄弟が撤退を進言したが、ヌルハチは聴き容れず、
李岱、我、同じき姓の兄弟、乃ち自ら相ひ戕害し、反りて哈達の爲に嚮導す。豈に恕す可きや。
(リダイがハダ兵を先導し、宗族である私の殺害を謀ったことは到底寛恕できない) というと、足下の雪道を階段状に削り、馬を縄で繋ぎ、兵には魚貫[4]して歩かせ、大雪の山路を強行突破した。[5][6]
ヌルハチ一行がジョォギャ城についた頃、大伯父・索長阿ソォチャンガの子・龍敦ロンドンからヌルハチ来襲を報されたリダイは、兵を集合させ、城に登ってヌルハチを迎撃する準備を整えていた。その様子をみたヌルハチ一行からは、準備万端の敵城に乗り込むのは簡単でないとし、またも撤退を進言する者が出たが、ヌルハチはそんなこと百も承知の上だと城を包囲させ、あっけなく陥落させた。リダイは捕縛されたが、宗族のよしみで命はとられず、連行された。[5][6]
脚註[編集]
典拠[編集]
- ^ “ᠵᠣᠣᡤᡳᠶᠠ joogiya”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 876 . "[名]〈地〉兆佳 (明代浑河部女真人的聚居地,今辽宁省新宾满族自治县下营子赵家村附近)。"
- ^ “山川”. 欽定滿洲源流考. pp. 314,419
- ^ “山川3”. 欽定盛京通志 (増補本). 27. p. 19
- ^ “ぎょ-かん・・クヮン【魚貫】”. 精選版 日本国語大辞典. 小学館 . "〘名〙 魚を串にさしつらねたように、おおぜいの人が列をなしてつらなって行くこと。"
- ^ a b “甲申歲萬曆12年1584 1月1日段282”. 太祖高皇帝實錄. 1
- ^ a b “諸部世系/滿洲國/甲申歲萬曆12年1584 1月段22”. 滿洲實錄. 1
註釈[編集]
文献[編集]
實錄[編集]
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
- 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
- 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
史書[編集]
Web[編集]
- 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)