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浪岡具永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北畠具永から転送)
 
浪岡具永
時代 戦国時代
生誕 長享元年(1487年
死没 天文24年5月24日1555年6月13日)?
改名 朝家→具永
別名 顕永、浪岡御所
官位 従四位下左近衛中将
氏族 浪岡氏
父母 父:浪岡顕具
具統具信
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浪岡 具永(なみおか ともなが)は、戦国時代武将陸奥国の名族浪岡氏の第7代当主。

生涯

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浪岡城を本拠とした。鎮守大将軍北畠顕家の末裔であるといい、将軍を御所と敬称する当時の慣習から、陸奥国一帯で「浪岡御所」と呼ばれた。内政手腕に優れ、朝廷と交渉するために上洛し、任官を受けたという。天文9年(1540年)に朝家から具永に改名しているが、これは伊勢北畠氏からの偏諱であるとされる[1]

没年について

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浪岡氏に関する没年に関する情報が安永4年(1775年)に作成された京徳寺過去帳の他に見られないため、史料性には疑問を持たれつつも通説として、具永の死没年は天文24年5月24日1555年6月13日)とされてきた[2]

一方で、外浜油川村(現在の青森県青森市油川)の熊野山十二所権現社の棟札銘には、永禄2年(1559年)に具永が同社を再興したとされている[3]。さらに、2011年(平成23年)『補略』と総称される公家名簿の史料群が学会に相次いで紹介され、その中では永禄6年(1563年)時点で具永は存命と認識されている。これらに基づき、具永の没年については、再検討の必要性も指摘されている(赤坂恒明)[4]

官歴

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注記のないものは『歴名土代』による。

系譜

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  • 父:浪岡顕具
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女

脚注

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参考文献

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  • 赤坂恒明「永禄六年の『補略』について : 戦国期の所謂「公家大名(在国公家領主)」に関する記載を中心に」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第11巻、埼玉学園大学、2011年12月、326(43)-311(58)、CRID 1050282812975072256ISSN 13470515 
  • 神田裕理, 日本史史料研究会「赤坂恒明「最北に栄えた“南朝北畠系”の堂上公家」『戦国時代の天皇と公家衆たち : ここまでわかった : 天皇制度は存亡の危機だったのか?』洋泉社〈歴史新書〉、2015年。ISBN 9784800308122全国書誌番号:22678236https://id.ndl.go.jp/bib/026914924 
  • 湯川敏治, 山科言継, 山科言経『歴名土代』続群書類従完成会、1996年。ISBN 4797102691全国書誌番号:98017458 
    • 参照可能な歴名土代の資料歴名土代 茨城大学附属図書館,菅文庫デジタル,9-5-4 (国書データベース)