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半井明親

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半井驢庵 (初代)から転送)
 
半井明親
時代 室町時代後期
死没 天文16年4月7日1547年4月26日
改名 明親→貞長[1][2]
別名 与十郎[3]、澄玄(剃髪号)[3]、蘭軒→春蘭軒(軒号)[3]、驢庵[1][2][3]
戒名 三要澄玄居士[4]
墓所 大徳寺真珠庵[3]
官位 従三位[4] 宮内大輔[1][2][4]
氏族 半井家和気氏
父母 父:半井利長[3]
明英(寿琳)、光成(瑞策) など[3]
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半井 明親(なからい あきちか、生年不詳[1][2] - 天文16年4月7日1547年4月26日[1][2])は、室町時代後期(戦国時代)の医師。初代半井驢庵(なからい ろあん)として知られ[1]、ほかに春蘭軒などの号がある。子孫は驢庵の称号を受け継いだ。

生涯

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生い立ち

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典薬頭半井(和気)利長の子として生まれる[1][3]。幼名は与十郎[1][3]。明親の生年についてははっきりしない[5]

中世、宮廷医師の最高位である典薬頭と施薬院使は、丹波家・和気家が独占するようになった[6]。和気家は和気明茂(茂成)のあと、丹波重頼の子である明重・利長の兄弟を相次いで養子に迎えた[3]。明重は和気家・丹波家両派の医術を兼修して[7][3]典薬頭を務めた[7][3]。利長はその家を継ぎ、多くの医学書を著した[3]

なお、「半井」の家名は、後述の通り明親(初代驢庵)に由緒づける説明が知られているが、和気明茂が宝徳3年(1451年)に従三位に叙せられた際にすでに「半井」の家名が見られる[8]

名前と家紋について

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十六葉裏菊紋

寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、剃髪号は澄玄[3]。また蘭軒と号したが(軒号と剃髪号を合わせて「蘭軒澄玄」[3])、後柏原天皇(在位: 1500年 - 1526年)から「春」の一字を加えられて春蘭軒と号した[1][9][注釈 1]。また、半井明親は後柏原天皇より紫纓を与えられるとともに[1]、その命により実名を貞長と改めた[1][2]

「半井」の家名の使用は上述の通り明親以前にさかのぼるが、「半井先祖書」では明親に関連付けて説明している[11]。京都の烏丸にあった明親の屋敷には大井戸があり[5]、その水は清らかであった[12]。これを半分に区切って用いたことが「半井」の家名の由来であるという。『寛政譜』によれば半分を禁裏に提供し、半分を自家用に使用したことで、後柏原天皇から「半井」の称号(家名)を与えられたとする[12](自家用でない半分を製薬に用いた[13]、あるいは天皇用の製薬に用いたともいう[5])。

『寛政譜』によれば、半井明親は将軍足利義政(1436年 - 1490年)より菊花の紋を与えられたという[3](『寛政譜』によれば、典薬頭半井家の家紋は「裏菊」など[14][注釈 2])。また、天皇からは「金地裏菊の末広」を与えられた、という[3]。『朝日日本歴史人物事典』では、将軍足利義政の執奏により天皇から金地裏菊御紋付の中啓扇子[注釈 3]を与えられ、天皇の命(口宣)によりこれを家紋としたという[1]

明への渡航と「驢庵」の号

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「半井先祖書」によれば[17]永正年間(1504年 - 1521年)にへ渡航し、当時皇帝であった正徳帝(武宗。在位: 1505年 - 1521年)の疾患の治療に関わった[3][2](薬の調進であったともされる[5])。この褒美として、銅硯1面と驢馬2頭を褒美として賜った[1][2]。日本への帰国後、驢馬のうち1頭を後柏原天皇に献上した[1]。明親は、驢馬に乗ること、明の官服中国語版 (zh:明朝服飾を着用して参内することが許可され、「驢庵」の号を与えられた[1]

また、明親は明で熊宗立と交友を持ち[1](熊宗立に師事したとも[5])、明親が日本に帰国する際に神農の像と銅人形を贈られたという[1][注釈 4]。熊宗立は福建の医師で、彼が編纂した『医書大全』は日本にもたらされ、日本医学界に多大な影響を及ぼした[18]。ただし、熊宗立の没年は成化18年(1481年)という史料が発見されており[19]、明親と熊宗立との関係は誤伝と見なされる[20]

晩年

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『堺市史』によれば、明親の父である利長は晩年は堺に隠棲した[21][22]。明親もまた堺で隠棲したとある[4]

天文16年(1547年)4月7日死去[1][2][3]。『朝日日本歴史人物事典』によれば死没地は京都[1]大徳寺真珠庵に葬られた[1]。真珠庵に明親の肖像画(狩野元信筆)があり[10]、明の官服を着用した姿で描かれている[23]

系譜

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『寛政重修諸家譜』では、以下の4子を挙げる[24]

明親の継嗣は明英(寿琳、閑嘯軒)で、官位は正三位宮内少輔・修理大夫に上った[25]。その弟の光成(瑞策、通仙院、二代驢庵)が医師としての家業を継いで朝廷や織田信長・豊臣秀吉の診察にあたり[25]、光成の子孫が江戸幕府に出仕し典薬頭となったため、明英の家の方が分家のようになった[25]。『寛政譜』編纂時の呈譜では、光成を明英の子として挙げるという[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 石野瑛は、「春」の字を与えた天皇を後土御門天皇(在位:1464年 - 1500年)[10]ともしている。
  2. ^ 『寛政譜』によれば、典薬頭半井家の家紋は「裏菊」「沢瀉」「五三桐」[14]。半井瑞之(卜泉)家の家紋は「十六葉単裏菊」「五三桐」[15]。千鹿野茂『家紋でたどるあなたの家系』(続群書類従完成会、1995年)p.139によれば、半井家の定紋は「十六葉裏菊」。石野瑛によれば、半井家の幕紋は「菊桐」、家紋は「丸の内に沢瀉」、替紋は「五三桐」[11]
  3. ^ 中啓」は「末広」ともいい、扇子の一種である[16]
  4. ^ 医書大全』『雑経俗解』などの書籍を与えられたともいう[5]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 宗田一. “半井明親”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年7月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 半井明親”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.610
  4. ^ a b c d (七一)半井明親”. 堺市史 第七巻. 2023年7月19日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 石野瑛 1937a, p. 95.
  6. ^ 久米幸夫 1980, pp. 127–128.
  7. ^ a b 和気明重”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  8. ^ 石原力 2002, p. 332.
  9. ^ 石野瑛 1937b, p. 325.
  10. ^ a b 石野瑛 1937a, p. 96.
  11. ^ a b 石野瑛 1937b, p. 326.
  12. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.608
  13. ^ 半井氏”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2023年7月19日閲覧。
  14. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.613
  15. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千三百八十六「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.263
  16. ^ 中啓”. 精選版 日本国語大辞典. 2023年8月5日閲覧。
  17. ^ 石野瑛 1937b, p. 318.
  18. ^ 小曽戸洋・王鉄策 2002, p. 298.
  19. ^ 小曽戸洋・王鉄策 2002, pp. 298–299.
  20. ^ 小曽戸洋・王鉄策 2002, p. 299.
  21. ^ 半井利長”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  22. ^ (六九)半井利長”. 堺市史 第七巻. 2023年7月19日閲覧。
  23. ^ 石野瑛 1937b, p. 329.
  24. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.610-611
  25. ^ a b c 石野瑛 1937a, p. 97.

参考文献

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外部リンク

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