明故宮
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(南京故宮から転送)
明故宮(みんこきゅう)は、中国の南京市にある明代初期の宮城である。
歴史
[編集]1421年、永楽帝の時代に北京へ遷都されるまで明朝の皇宮として使用された。15世紀以降、宮殿群は落雷などでたびたび火災に見舞われたが[2]、再建されなかった[3]。
1912年に中華民国が設立され、南京を首都と定めて、中国初の近代的都市計画ーー「首都計画」を立案した。これは、南京を中国最先進の都市に改造するという構想だった。明故宮付近は行政地区として計画されていたが、第二次世界大戦と国共内戦のため、計画は実行されなかった。国民党は内戦に敗れ台湾に退却した[4]。
1951年以降、中華人民共和国は遺跡公園として整備を進めた。
現在、公園は地元住民の憩いの場となっており、観光客で賑わっている。
明故宮の遺跡は、午門、東華門、西安門、金水川、金水橋(五龍橋)、柱の基礎、碑文などが残っている。午門の2つの辺門は中華民国時代に取り壊され、木造の建物は失なわれており、柱の基礎だけが残っている。 明故宮の中央の3つの宮殿の場所は明故宮遺跡公園と呼ばれ、午門、金水橋、奉天門遺物の周辺は午朝門公園と呼ばれている。明故宮の周辺地域には南京航空航天大学、南京軍区档案館、中国第二歴史档館などが立地している。
脚注
[編集]- ^ 『明実録・太祖実録』、台湾校勘本巻二一
- ^ 鄭暁『今言』巻三:“南京大内近多圯壊,以王廷相建言故也。今端門楼已毀,承天門楼将傾,数年之後当大壊。宗廟火,亦当復建,神所棲也。不知其神在彼乎,在此乎。故成王在鎬京,而文、武王廟豊及洛都皆有之。夏言九廟議誣甚”
『明神宗実録』:万暦三年正月己未,議修理南京内府門殿、庫藏。議者以為累朝明禁,無容軽議,惟奉先殿享祀列聖神位,武英殿奉太祖、成祖御容,大庖厨為進供日膳之所,及諸緊要庫藏所,宜及時修葺。于是南京工部尚書劉応節上言:“南京為祖宗創業根本重地。自成祖定鼎幽燕,南京大内,遂為虚設,禁令勿修,允其自壊。先朝深意,未易窺測。然臣等之愚謂有不必修者,有必不可不修者,似未可漫無分別,一概停止。如系内外出入之防者必修,外囲皇墻、内囲禁城是也;系享祀供膳之所者必修,奉先殿、武英殿、大庖厨是也;系銭粮積貯之所者必修,承運等庫是也;系官軍駐扎、官軍宿衛之処必修,光禄寺、尚宝司、六科、監局及宿衛等房是也,系臣民観瞻之重者必修,東安、東華等門是也。今各衙門公署已経題修二殿,大庖各庫,見有今議,而独東安、東華等門及宿衛処所,議者未及。恐傾頽日甚,一望丘墟,非所以粛観瞻重根本也。但銭粮詘乏,工料難辦,或俟別項倒塌,重行拆卸,移取無用,以修有用,庶為両得耳。”疏下工部。 - ^ 『南明史』本紀一: (崇禎十七年六月)戊寅,改内宮監為朝殿,命粛朝班。 (崇禎十七年八月)癸酉,命修西宮之西園第一所為皇太后宮。”十一月戊子“西宮慈禧殿成。” 崇禎十七年十二月甲申“御興寧宮”;弘光元年正月甲午“修奉先殿及午門、左右掖門”;弘光元年四月丁卯“選淑女于元暉殿”。 『南明史』志二・礼:安宗即位,南京命工部大修奉先殿。崇禎十七年五月庚寅,移武英殿所奉二祖二后御容于殿中。
- ^ “南京明故宮旧影”. web.archive.org (2012年12月13日). 2021年1月23日閲覧。