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可知貫一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
可知貢一から転送)

可知 貫一[1](かち かんいち、1885年 - 1956年)は、日本の農業土木技術者、研究者。岐阜県出身。円筒分水工の発明者[2]

人物

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明治18年(1885年)、岐阜県恵那郡阿木村(中津川市阿木)生まれ[3]

父の与一は東野村小学校初代校長、阿木村村長を務め、自由民権活動家でもあった[3]

祖父の鷹見豊次郎も巌邑尋常高等小学校の校長で、貫一は同校の高等科に通った[3]

岐阜中学校を経て[3]

明治40年(1907年)、第六高等学校 (旧制)卒業[4]

明治43年(1910年)、東京帝国大学農科大学農学科卒業。

卒業後は東京高等農林学校教師を務める。

明治45年(1911年)、岐阜県技師。円筒分水工を考案し、

大正3年(1914年)に岐阜県小泉村に第1号が設置された[2]

同年、東野村で開田対策として人工湖建設を立案し、のちに保古の湖が建設された[5]

大正7年(1918年)、農商務省技師となり、土地利用の調査、計画を担当。八郎潟干拓の立案はじめ各地の干拓を指導した[3]

大正12年(1923年)、東京帝国大学農学部講師などを経て、大正15年(1926年)には十和田湖の調節によって三本木原開墾・開発案を樹立。

昭和2年(1927年)、世界農業会議(First Pan Pacific Conference on Education, Rehabilitation, Reclamation and Recreation、同年4月ホノルル開催[6])に出席のため訪米し、TVA計画なども視察[3]

昭和8年(1933年)、巨椋池聞墾国営工事事務所長。

昭和11年(1936年)、京都帝国大学農学部[7]教授。

群馬、埼玉、千葉、茨城、山梨、長野、秋田、熊本、福島、愛知など全国各地の事業計画を完成させるとともに、農業土木の教育、研究指導に功を残した。

著書

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  • 『地下水強化と農業水利』(1946年)
  • 『農業水利学』(1948年)

家族

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参考文献

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  • 「水土を拓いた人びと」編集委員会, 農業土木学会『水土を拓いた人びと : 北海道から沖縄までわがふるさとの先達』農山漁村文化協会、1999年。ISBN 4540991124NCID BA42971994全国書誌番号:20006207 
  • 「輪」をもって貴し。争いも解決してきた。| Slow Journeys【スロージャーニーズ】 2022.7.11

脚注

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  1. ^ 可知貫一国立国会図書館検索結果(可知貢一では検索結果なし )
  2. ^ a b 水争いを丸く収める日本生まれの分水装置建設業しんこう、500号、2018
  3. ^ a b c d e f g h 可知貫一 保古の湖の生みの親公民館報ひがしの24号、1985.9.20
  4. ^ 第六高等学校一覧 昭和3年至昭和4年
  5. ^ 可知貫一 保古の湖の生みの親公民館報ひがしの24号、1985.9.20
  6. ^ 同会議報告書First Pan Pacific Conference on Education, Rehabilitation, Reclamation and Recreation: Report of the Proceedings, United States. Department of the Interior, 1927, p258 Land Improvement and Reclamation in Japan by Dr.Kanichi Kachi
  7. ^ 研究代表者 藤岡健太郎「帝国大学農学部の形成と展開に関する研究:九州帝国大学を中心に」『科研費報告書』研究課題/領域番号:15K04237、2019年、hdl:2324/2230707 
  8. ^ a b 人事興信録 第13版下 田口東一
  9. ^ 『横浜の近代: 都市の形成と展開』横浜近代史研究会, 横浜開港資料館 · 1997 p317

外部リンク

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