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吉田重賢

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戦国時代の人物 (日本) > 戦国武将 > 吉田重賢
 
吉田 重賢
左:日置弾正、右:吉田重賢
時代 戦国時代
生誕 寛正4年(1463年
死没 天文12年4月3日1543年5月6日
別名 太郎左衛門、助左衛門(通称)、道宝(法名)、豊稔、重長、茂長、方豊
墓所 三重県津市の四天王寺
官位 上野介出雲守下野守
主君 六角定頼義賢
氏族 吉田氏佐々木氏支族)
重政和泉守若狭守松本民部少輔
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吉田 重賢(よしだ しげかた)は、戦国時代武将・弓術家。近世弓術の主流となった吉田流(日置流)弓術の祖。

生涯

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寛正4年(1463年)、近江国蒲生郡河森(川守)(現滋賀県蒲生郡竜王町川守)で誕生。

重賢は幼少時に逸見流武田流小笠原流 [1]などの古流弓術を学び、続いて明応年間頃に日置正次(弾正)が創始した射法を修めたとされる。

日置弾正の射法は従来のものに比べ革新的であったことから、弾正以前の流派を「古流」、弾正以降を「新流」という[2]。 この流れは重賢の子孫らにより大いに世に広まり、日置流または吉田流と称され、重賢は吉田流開祖とされた。近世以降の弓術流派はほぼ全てこの日置・吉田流の系統に属する。

なお日置弾正に関しては、その存在を含め不明な点が多く、実在説の他、重賢による創作説、正次・重賢同人説などがある。

重賢は天文12年(1543年)4月13日没した。享年81[3]。家業の弓術は子の吉田重政(出雲守・一鴎)が継いだ。

吉田氏について

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日置流(吉田流)各派系図

吉田氏は宇多源氏近江源氏)の佐々木氏一族で、佐々木秀義の子吉田厳秀を始祖とする家系である。戦国時代当時、吉田氏は六角氏の重臣であった。現在の竜王町付近が領地であったとされ、同地の川守付近の八幡神社は居城の川守城跡と伝わる。周辺には吉田氏の事跡が伝わる地が多い。

寛政重修諸家譜の吉田氏系図(印西派宗家の旗本吉田氏が提出したもの)には重賢について、「佐々木家に属し、旗下七人のうちたり。日置弾正豊秀にしたがひて射芸を学ぶ。豊秀が門人多しといへども、出雲守ひとりその妙をうるがゆへに、豊秀家伝をつがしむ。これより世こぞりて吉田流と称す。子孫にいたるまで代々相伝てその術を教授す。」 とある(豊秀は日置弾正の別名。)。

その他

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重賢の法名に因む「道宝」という弓具がある。これはの中仕掛(矢の筈を番(つが)える部分に麻などを巻き補強した部分)を作る際、巻き付ける繊維を締めるための小さな拍子木状の物である。

脚注

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  1. ^ 現在でも武田流、小笠原流と称する流派は存在するが、これらは一度断絶後に復興されたものであり、重賢が学んだものと同様であるかは不詳。
  2. ^ 本多利実 弓道保存教授及演説主意 一名 弓矢の手引、明治22年8月
  3. ^ 吉田家菩提寺の津市の四天王寺の過去帳による。

参考文献

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  • 今村嘉雄・小笠原清信・岸野雄三 編『弓術・馬術』(日本武道全集第3巻)、人物往来社、1966。
  • 宇野要三郎 監修『現代弓道講座』第1巻(総論編)、雄山閣出版、1970。
  • 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 吉川弘文館、1979-1997。
  • 神宮司庁『古事類苑 武技部』 古事類苑刊行会、1932。
  • 日夏繁高『本朝武芸小伝』 享保年間。
  • 綿谷雪 編『武芸流派大辞典』 人物往来社、1969。

関連項目

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外部リンク

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