名取正澄
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(名取正武から転送)
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 宝永5年3月15日(1708年5月5日) |
別名 | 正武、三十郎 |
戒名 | 窮源院滴岩了水居士 |
墓所 | 和歌山県和歌山市の大宝山 恵運寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川頼宣→徳川光貞→徳川綱教→徳川頼職→徳川吉宗 |
父母 | 父:名取彌次右衞門正豊 |
兄弟 | 名取彌次左衞門正勝(通称:六之助) |
妻 | 高樹院茂林貞ハン大姉 |
子 | 名取兵左衛門邦教 |
名取 正澄(なとり まさずみ、? - 宝永5年(1708年))は、江戸時代の紀州藩の軍学者。通称は三十郎、号は一水、藤一水。
概要
[編集]日本三大忍術伝書の一つである『正忍記』の著者であり、紀州藩主徳川頼宣の軍学指南役として仕えた。
楠木正辰、島田潜斎、神戸能房らに学び、新楠流(名取流)を創始。その後、名取流は世襲されたが、紀州藩では宇佐美家が越後流を唱え、名取流は忍びが中心となった[1]。
2012年(平成24年)4月に和歌山県和歌山市吹上にある恵運寺で墓石、位牌、過去帳記載などが発見された。
経歴
[編集]- 承応3年5月 新規召出 中小姓
- 万治3年5月 大小姓 切米30石
- 延宝7年9月1日 御近習
- 貞享2年8月23日 大番組
- 貞享4年8月22日 伊都郡大野村へ扶持を受けながら蟄居
- 宝永5年3月15日 病没[2]
著書
[編集]- 一兵要功
- 正忍記
子
[編集]惣領である三男名取兵左衛門邦教(号青龍軒)は、国立国会図書館蔵の『正忍記』写本(青龍軒本)著者である。