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坂合部磐鍬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂合部石敷から転送)
 
坂合部磐鍬
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 斉明天皇5年9月15日659年10月6日
別名 石布、石敷
官位 小錦下
主君 孝徳天皇斉明天皇
氏族 坂合部
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坂合部 磐鍬(さかいべ の いわすき)は、飛鳥時代貴族。名は石布石敷(いわしき)とも記される。冠位小錦下

経歴

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斉明天皇2年(656年)8月に高句麗から調が進上されるが[1]、9月にその返礼使として大使・膳葉積に随い副使として高句麗へ渡っている[2]

斉明天皇5年(659年)7月に第四次遣唐使の大使として江南路をとって渡唐した。副使・津守吉祥の船は無事洛陽に到着したが、9月15日の日没時に磐鍬の船は横からの逆風に遭い、南海の爾加委(にかい)という島に漂着した。ここで、磐鍬は島の民によって殺され、残された東漢長阿利麻坂合部稲積ら5人が島人の船を奪って脱出し、括州(現在の浙江省麗水)を経由して洛陽まで辿り着いた[3]

孝謙朝天平宝字元年(757年)の太政官奏上によって、石敷の功田6町について遭難して死んだことは哀れむ宜き事項であるが、功績とは言いがたいため下功として子供に相続させることが定められた[4]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』斉明天皇2年8月8日条
  2. ^ 『日本書紀』斉明天皇2年9月条
  3. ^ 『日本書紀』斉明天皇5年7月3日条、『伊吉博徳書』
  4. ^ 『続日本紀』孝謙天皇、天平宝字元年12月9日条

参考文献

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  • 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p827(三省堂、1993年)
  • 『日本書紀』(三)・(四)岩波文庫、1994年、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(上)・(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年
  • 『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
  • 『日本の古代3 海をこえての交流』、大林太良:編、中公文庫、1995年