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坊城房子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

坊城 房子(ぼうじょう ふさこ、1652年承応元年) - 1676年9月7日延宝4年7月29日))は、霊元天皇典侍。父は権大納言坊城俊広[1]。母は飛鳥井雅章の娘。権大納言局・藤大典侍と称された。

生涯

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権大納言坊城俊広の娘として生まれる。霊元天皇の後宮に入り、権大納言局と称された。

後に典侍に進み、藤大典侍と称される。天皇の寵愛を受けて、懐妊をするが、同じ頃に東福門院の推挙で後宮に入った田向小路局(西洞院時良の娘)も懐妊したことで、2人の女性やその周辺の公家達の対立を引き起こして騒動になった(禁闕騒動)[2]

1669年寛文9年)に第二皇女の憲子内親王を生んだ[3]。しかし、江戸幕府の意向で鷹司房子の入内を進めていた板倉重矩京都所司代、後に老中に転じる)の不興を買い、そのまま宮中を退出させられることになった[4]

1676年9月7日延宝4年7月29日)、死去。享年25[3]

脚注

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  1. ^ 坊城家(名家)”. Reichsarchiv ~世界帝王事典~. 2021年1月15日閲覧。
  2. ^ 石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2017年、P382-385。/2021年、21-25.
  3. ^ a b 「日本人名大辞典」(講談社
  4. ^ 石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2017年、P388・393。/2021年、28・33.

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