坊城房子
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坊城 房子(ぼうじょう ふさこ、1652年(承応元年) - 1676年9月7日(延宝4年7月29日))は、霊元天皇の典侍。父は権大納言の坊城俊広[1]。母は飛鳥井雅章の娘。権大納言局・藤大典侍と称された。
生涯
[編集]権大納言の坊城俊広の娘として生まれる。霊元天皇の後宮に入り、権大納言局と称された。
後に典侍に進み、藤大典侍と称される。天皇の寵愛を受けて、懐妊をするが、同じ頃に東福門院の推挙で後宮に入った田向小路局(西洞院時良の娘)も懐妊したことで、2人の女性やその周辺の公家達の対立を引き起こして騒動になった(禁闕騒動)[2]。
1669年(寛文9年)に第二皇女の憲子内親王を生んだ[3]。しかし、江戸幕府の意向で鷹司房子の入内を進めていた板倉重矩(京都所司代、後に老中に転じる)の不興を買い、そのまま宮中を退出させられることになった[4]。
1676年9月7日(延宝4年7月29日)、死去。享年25[3]。
脚注
[編集]- ^ “坊城家(名家)”. Reichsarchiv ~世界帝王事典~. 2021年1月15日閲覧。
- ^ 石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2017年、P382-385。/2021年、21-25.
- ^ a b 「日本人名大辞典」(講談社)
- ^ 石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2017年、P388・393。/2021年、28・33.
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