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堀田正路 (海軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀田正路から転送)
堀田ほった 正路まさみち
生誕 1879年12月31日
死没 (1973-02-18) 1973年2月18日(93歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
最終階級 海軍中佐
配偶者 堀田マン
子女 長沢悦子
松井絢子
堀田正博
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堀田 正路(ほった まさみち、1879年明治12年)12月31日 - 1973年昭和48年)2月18日)は、日本海軍軍人華族。旧佐野藩堀田家当主で爵位子爵。軍人としての最終階級は海軍中佐位階勲等は1939年時点で正三位勳三等功四級に叙されている[1]

経歴

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河内狭山藩最後の藩主であった北条氏恭の次男である。氏恭は佐野藩主堀田正衡の子で、最後の佐野藩主堀田正頌の叔父にあたる。正路は従兄でもある正頌の養子となり、1896年(明治29年)に襲爵した。

「浅間」は第二艦隊第二戦隊に属して日本海海戦を戦った。写真は1898年に撮影したもの。

正路は海軍兵学校に進み、1901年(明治34年)29期生として卒業。席次は125名中21番[2]で、 1903年(明治36年)1月に少尉に任官した。「浅間」乗組みとして日露戦争に参戦し、艦載水雷艇を指揮して第二軍の上陸作戦を援護[3]し、機雷の設置や魚雷攻撃を行っている。日本海海戦は同艦の分隊長として戦った[4]

戦後は水雷艇」艇長(大尉[5]軍令部出仕(少佐[6]を経て、1907年大正6年)から翌々年にかけて駐米大使館附武官補佐官(中佐)として米国に駐在し、造船造兵監督官を兼任した[1]。上司の武官は野村吉三郎である。日本海軍の仮想的国である米国での駐在勤務は顕職であった[* 1]。帰国後横須賀鎮守府[7]を経て、1922年(大正11年)8月16日予備役編入となる[8]

日露戦争時の正路について「浅間」艦長八代六郎は以下のような報告を行っている。

海軍少尉正五位子爵 堀田正路

明治三十七年六月及七月二亘リ前後六回艦載水雷艇ヲ指揮シ旅順口前ニ於テ特殊機雷水雷ノ沈下夙ニ魚形水雷ヲ以テ敵艦襲撃ヲナシタルハ忠勇絶倫真ニ軍人ノ模範タルヘキモノトス

— 日露戦役実験摘録(2) 軍艦 吾妻 浅間 八雲 富士 千鳥 真鶴 明治37-38

栄典

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脚注

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注釈
  1. ^ 堀田の前後のクラスで同時期に米国駐在であった者に永野修身28期)、百武源吾30期)、長谷川清31期)、山本五十六32期)がいる。
出典
  1. ^ a b 『大衆人事録 東京篇』「堀田正路」
  2. ^ 『海軍兵学校沿革』「明治34年12月14日」
  3. ^ 明治37-38年 戦時書類 巻13 情報報告4”. アジア歴史資料センター Ref.C09020035500. 2013年2月19日閲覧。
  4. ^ 有終会戦袍余薫懐旧録』第2輯
  5. ^ 39年4月30日 第1期艦砲教練射撃成績表(水雷艇蒼鷹・燕・鴿・第9艇隊雁・の分)”. アジア歴史資料センター 砲熕射撃成績表1 明治39年(防衛省防衛研究所) Ref.C11081049000. 2013年2月19日閲覧。
  6. ^ 内閣印刷局『職員録』(大正4年甲)、同(大正5年甲)、同(大正6年甲)
  7. ^ 8年8月30日 退庁届の件”. アジア歴史資料センター 大正6年 外国駐在員報告 巻7(防衛省防衛研究所) Ref.C10100833500. 2013年2月19日閲覧。
  8. ^ 『官報』第3014号、大正11年8月17日。
  9. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  10. ^ 『官報』第1630号「叙任及辞令」1918年1月11日。
  11. ^ 『官報』第5603号「叙任及辞令」1945年9月14日。

参考文献

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  1. 浅間(1)」(「日露戦役実験摘録(2) 軍艦 吾妻 浅間 八雲 富士 千鳥 真鶴 明治37-38」防衛省防衛研究所 Ref.C09050781900 )
  2. 6年7月11日着任の件」(「大正6年 外国駐在員報告 巻7」防衛省防衛研究所 Ref.C10100832900)
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)1939年

関連項目

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日本の爵位
先代
堀田正頌
子爵
佐野堀田家第2代
1896年 - 1947年
次代
華族制度廃止