コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大井廣介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大井広介から転送)
大井廣介
誕生 麻生 賀一郎
(1912-12-16) 1912年12月16日
日本の旗 日本 福岡県
死没 (1976-12-04) 1976年12月4日(63歳没)
職業 文芸評論家、野球評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1939年 - 1976年
ジャンル 文芸批評、野球評論
代表作 『左翼天皇制』 など
親族 麻生太賀吉麻生太郎
テンプレートを表示

大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1976年12月4日)は、日本文芸評論家、野球評論家。本名、麻生賀一郎。麻生太郎の父親である麻生太賀吉は従兄にあたる。

人物

[編集]

福岡県出身。旧制嘉穂中学校卒業。早くに父を喪ったため、伯父から庇護を受ける。1930年に東京へ行く。1939年、文芸同人誌『槐』(えんじゅ)を創刊。1940年、同誌の誌名を『現代文学』と改め、平野謙荒正人佐々木基一杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆。同誌を昭和10年代の代表的な文芸同人誌に育て上げた。

同誌は戦後の『近代文学』の礎となったが[1]、大井は『近代文学』から距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判をおこなった。

『群像』1956年2月に「文学者の革命実行力」を発表した。

異色の野球評論家としても活躍。『週刊ベースボール』に長期にわたってコラムを連載していた。

また、「近代文学」の仲間は探偵小説好きが多かったが、大井もミステリ好きで、戦争中には、坂口安吾平野謙荒正人檀一雄らを自宅に集め、犯人あてのゲームに興じていた。このゲームは大井の家が戦災で焼失したのち、戦後になってからも埴谷雄高邸に場所を移して行われた[2]。「田島莉茉子」名義でミステリ『野球殺人事件』(1951年刊行)を発表したのは、大井と言われている[注釈 1]。また、1960年代には雑誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」にミステリ時評を発表。死後に『紙上殺人現場』として刊行された。

著書

[編集]
  • 藝術の構想 竹村書房, 1940
  • プロ野球22シーズンとトラブルの歴史 ベースボール・マガジン社, 1956
  • 左翼天皇制 拓文館, 1956
  • 文学者の革命実行力 青木書店, 1956
  • 革命家失格 拓文館, 1957
  • バカの一つおぼえ 近代生活社, 1957
  • プロ野球騒動史 ベースボール・マガジン社, 1958
  • 英雄よみがえる 光文社, 1958
  • プロ野球エンマ帳 ベースボール・マガジン社, 1958
  • タイガース史 ベースボール・マガジン社, 1958
  • ちゃんばら芸術史 実業之日本社, 1959
  • 巨人の光と影 三十年のすべて 河出書房新社, 1964
  • 独裁的民主主義 スターリン帝政の模型 インタープレス, 1976.12
  • 紙上殺人現場 社会思想社 現代教養文庫, 1987.11
  • ちゃんばら藝術史 深夜叢書社, 1995.10

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 埴谷雄高は、筆名「田島莉茉子」の正体は大井であること、大井が『野球殺人事件』を執筆するあたっては埴谷自身も相談に乗って助言したこと、坂口安吾が原稿を岩谷書店に持ち込んだこと、出版関係者の間では事情は知られており、1976年に齋藤愼爾が深夜叢書社で復刻版を出したときには大井の遺族に許可を得ていること、を証言している[2]

出典

[編集]
  1. ^ 一連の経緯は『大井、平野、本多―『現代文学』から『近代文学』まで』(小堀用一朗、武蔵野書房、2006年)に詳しい。
  2. ^ a b 埴谷雄高「署名本」『埴谷雄高全集 第十一巻 『「死靈」断章』』講談社、1999年11月20日、630-632頁。ISBN 4-06-268061-0 初出『群像』1993年9月号。

関連項目

[編集]
  • 不連続殺人事件』 - 坂口安吾による探偵小説。大井邸で行われた犯人当てゲームが執筆のきっかけとなっており、作中には荒正人と大井の名前を組み合わせた「荒広介」という刑事が登場する。また、同作の犯人当て懸賞で、大井は部分的正解として4等に入選した。