塩路彦右衛門
塩路 彦右衛門(彦右衞門、しおじ ひこえもん、1853年2月10日(嘉永6年1月3日[1][2])– 1930年(昭和5年)6月10日[1][3][4])は、明治期の大地主[2]、教育者、政治家。衆議院議員。旧名・大橋久雄[1]。号・五水[1]。
経歴
[編集]紀伊国日高郡山中村[1](現和歌山県日高郡日高町[4])で大橋兵次郎の長男として生まれ[1]、同郡島村(御坊村、御坊町を経て現御坊市)の天田組地士・先代塩路彦右衛門の養子となり、1872年(明治15年)に家督を相続して彦右衛門を襲名した[1]。
明治の初めに和歌山の松山棟庵の私立英語学校で学び、毛革屋丁で英語塾を開いた[1]。その後、1870年(明治3年)慶應義塾に入塾し1874年(明治7年)に卒業[1][2][3][4]。名古屋で3年ほど英語教師を務め[1][4]、この間、1876年(明治9年)愛知英語学校の英語教員[3]となるが、翌1877年(明治10年)に廃校となり職を辞した[2]。
1878年(明治11年)に帰郷し、1879年(明治12年)3月、初代和歌山県会議員に当選(大橋久雄名義)した[1][2][4]。1880年(明治13年)9月に再選され、1882年(明治15年)6月に退任した[1][4]。県会議員に2期・3年4ヵ月在任し、県会幹事、常置委員を務めた[1][3]。
1884年(明治17年)御坊村外4ヵ村戸長となり、次いで1885年(明治18年)日高郡書記に任じられ第一課長に就任した[1][4]。1890年(明治23年)に退官し農業を営んだ[2]。
1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で和歌山県第3区から出馬して当選した[1][2][3][4]。1898年(明治31年)8月、第6回総選挙でも当選し[2][4]、衆議院議員に通算2期在任した[1][3]。この間、憲政本党[2]、三四倶楽部に所属した[1][3]。
1902年(明治35年)8月の衆議院議員任期満了後、帰郷して農業を営み、また書画骨董を愛好して悠々自適の生活を送った[1]。
脚註
[編集]参考文献
[編集]- 山崎謙『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『和歌山県議会歴代議員名鑑』和歌山県議会、1969年。
- 和歌山県史編さん委員会編『和歌山県史 人物』和歌山県、1989年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。