大橋澤三郎
表示
(大橋沢三郎から転送)
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。
略歴
[編集]大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富[1]の四男に生まれた。
井原興譲館(現:備中興譲館[2])、坂田警軒[3]の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。
澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質[4](和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。
かって東京に遊学[5]して英語を学び[6] 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」[7]を結成。1886年、「紡績所企業計画書」[8]を策定して地元有力者、岡山県知事などに働きかけ、上京調査団[9]を編成。各地の紡績工場を視察しながら上京し、郷里の先輩、馬越恭平[10]を介して三井物産益田孝社長や渋沢栄一[11]らからの助言を受け、明治20年(1887年)、大原孝四郎を頭取に仰いで倉敷紡績を設立。取締役に就任した澤三郎は工場建設途中に病を得て静養を余儀なくされる。
明治22年(1889年)10月30日、工場操業開始を見届け永眠[12]。享年30歳 。
脚注
[編集]- ^ |中山実富(1816~1867):備中川面(現高梁市川面町)の山本栄蔵次男山本八十二として生まれ、吹屋の弁柄・明礬などの事業を営む中山家(中野屋)に婿養子として迎えられ中野屋太左衛門(中山太左衛門実富)と称す。(成羽町史ほか)
- ^ |備中興譲館:嘉永6年(1853)、一橋家代官友山勝次が阪谷浪盧を初代館長として招聘し開校、現在の興譲館高校の前身。井原村(現井原市)は当時、一橋家所領であった。渋沢栄一は元治元年(1864)一橋家に出仕、元治2年、一橋慶喜の命を受けて井原村に募兵に行き、興譲館館長阪谷浪盧と攘夷開国の国論を論ず。(土屋喬雄著「渋沢栄一」人物叢書ほか)
- ^ |坂田警軒:阪谷浪盧の甥。興譲館開校の翌年、嘉永7年(1854)15歳で入校、翌年塾頭、明治元年(1868)興譲館二代目館長。 1879年、岡山県会議員、議長、1886年、同志社講師、1890年、衆議院議員。澤三郎の墓地には坂田警軒による碑文が刻印されている。
- ^ |大橋重質(1828~1881):大橋(喜平)重質は備中川面(現高梁市川面町)の山本栄蔵四男山本喜平として生まれ、倉敷村大橋藤右衛門の長女の婿養子として迎えられ、長女竹(澤三郎妻)、長男良平、次女かねの1男2女をもうける。即ち、澤三郎と妻竹は従妹。
- ^ |澤三郎の東京遊学:澤三郎の東京遊学については、「倉敷紡績百年史」(昭和六十三年発行)第一章第三節「立ち上がった三青年」の項に“早く東京に遊学し、各種の経済資料を集めてきた繰綿問屋の大橋沢三郎(26歳)…”とあり、また、百年史には載らなかった覚え書きとして残された「クラボウ史おぼえ書き② 社史編集室」(昭和60年2月号倉紡社内報「同心」に記載)の「倉紡の創立と三青年」の紹介の中で“大橋沢三郎(1860~1889) 対外的な仕事を完遂”として、「…早くから東京に出て勉強し、多くの経済資料を集めて研究した学者肌の人である。英語も堪能であった。紡績所設立の手続きや設備技術の検討段階では、小松原慶太郎と二人で、沿道のすぐれた紡績所を見学しながら上京し、関係官庁や渋沢栄一などを訪問した…」、と書かれている。また、「沢三郎は、当時三井物産に勤務していた同県人の馬越恭平(後の大日本麦酒の社長でビール王といわれた)を以前から知っていたようである。その関係で物産社長益田孝と面談した。それから、急速に紡機の輸入の展望が開けた。」ことも記載されている。 澤三郎が東京に遊学したことの確証は得られないが推測はできる。澤三郎の墓碑を書いた坂田警軒は明治元年(1868)、興譲館初代館長阪谷朗盧に代わり二代目興譲館館長に就任したが、警軒はその前まで数年間江戸に留学していた。 警軒が塾頭の時に興譲館で後輩として学んだ馬越恭平は大阪で働いた後、明治6年(1873)上京し後に三井物産で働くことになる。 また、この年(明治6年)、福沢諭吉、森有礼らによって結成された知識人による啓蒙運動「明六社」に興譲館初代館長の阪谷朗盧も参加している。(朗盧は明治2年、請われて上京し民部省に仕官)澤三郎は坂田警軒館長に勧められて興譲館の先輩を頼って上京し、勉学の機会を得たのではないか。
- ^ |澤三郎の英語:「くらぼう史おぼえ書き②」にも、“英語が堪能であった”と書かれているが、どこでどう学んだのかの確証はない。推測ではあるが、上京の折、興譲館初代館長の阪谷朗盧に触発されたのではないか。或いは朗盧から英語学習の場を紹介されたかもしれない。朗盧は万国共通語論者であり、世界の言語を一つにすれば、民族の違いはあっても、意思の疎通がうまくゆくから、戦争なんか起こりえないと主張、明六雑誌の論文中には、英語などもさんざん使用されていたとのことである。(ポーランドのザメンホフがエスペラントを発表した1887年よりも十数年前)(岡山県井原市資料)
- ^ |知識交換会:成果としての「紡績所企業計画書」が完成したのが明治19年(1886)であるから、3青年が知識交換会を組織したのは明治17年頃であろうか。江戸時代、物資の集散地として栄えた天領倉敷も元禄(1690年頃)以後、海運は次第に衰退してゆき、代わって高梁川の河口玉島港が備中の海運基地として栄えた。 明治になっても、徳川二世紀半にわたって凝り固まった『天領倉敷』の気風がそのまま残り、米と綿花の集散のほかに、取り立てた産業を持たない倉敷村の人口は減少し、一方、近郷では官営で設立された紡績所(玉島紡績所:現倉敷市玉島、下村紡績所:現倉敷市児島)が稼働開始し活気をおびていた。 以下、倉敷紡績百年史「立ち上がった三青年」の項より; 『そのころ、三人の青年たちが、倉敷村のほぼ中央にある小高い鶴形山をよく、散策していた。眼下に広がる綿畑や、村に働く場のない人々を眺めながら、彼らはこの沈滞を打破し、何とか、現状を革新しようとする思いを、日々募らせていた。天に殖産興業、紡績勃興の時があれば、地に備中紅綿産出の利がある。この天の時、地の利を見詰める三人の青年は、明治19年(1886)、いずれも20歳代、少壮気鋭であった。 早く東京に遊学し、各種の経済資料を集めてきた繰綿問屋の大橋沢三郎(26歳)、雄弁と説得力にたけた士族の小松原慶太郎(24歳)、経済動向の機を見るに敏で商才に長じていた醸造業の木村利太郎(26歳)の三人は、三賢人とも三傑とも言われたが、ともに相携えて、早くから「知識交換会」というグループを結成し、各方面に新知識を求めて修業に努めていた。 三人はただ現状打開を叫ぶだけではなく、ともども入手した経済資料を入念に検討し、情勢についての分析と洞察に努め、将来の倉敷の姿を求めてひたすら研鑽を重ねていった。 「知識交換会」で得た結論は、この村に工業を興すことであった。そして、その工業を興すとは、紡績所建設にほかならなかった。』
- ^ |紡績所企業計画書:1886年12月19日、倉敷及び郡内の有力者百数十名が一堂に集まった席で小松原慶太郎が熱弁をふるって説明し有志の共感を得る。翌1887年1月、倉敷選出の県会議員林醇平の協力を得て紡績所の企業を発起し出資者の勧誘を始め、6月、資本金十万円、紡機5,000錘の原案策定。7月、倉敷を視察した千坂岡山県知事と懇談、知事から官営の紡績所が経営上の苦境にあること、本腰を入れるなら1万錘が望ましいとの見解が示され、直ちに発起人は大原孝四郎に出資を要請し承諾を得たのち資本金20万円、紡績設備1万錘の会社設立準備に入った(倉敷紡績百年史より)。
- ^ |上京調査団:調査団(大橋沢三郎、小松原慶太郎)は1887年(明治20年)9月出発、沿道にある先発紡績所を訪問しながら、東京へ向かった。途中の主な訪問先は、業績良好な姫路紡績所、当社と相前後して設立された平野紡績、創立後5年を経て、早くも6万1320錘を擁し、資本金120万円の大会社に成長していた大阪紡績などであった。 東京では調査団は、岡山県知事の添書を持って、工務局をはじめ関係当局を訪れたが、その際、特筆すべきことは、同郷の県人で三井物産勤務の馬越恭平を通じて、同社初代社長益田孝に会ったことであった。三井物産は、明治9年創立以降、技師を英国に派遣して、英・プラット社で紡績機械の研究を行い、明治19年には日本における同社の輸入代理店となっていたので、同社から機械設備の導入方法や、技師の紹介等について、指導助言を得ることができた。これは、後日企業化案の作成や実行に当たり、大いに力となった。また、益田社長と共同で多くの事業を行い、大阪紡績の主要発起人でもあった第一銀行頭取渋沢栄一からも、紡績経営上の貴重なアドバイスを得た。 このようにして、調査団は極めて多くの有益な知識、資料を携えて、11月帰村した。同僚たちはその成果を早く知ろうと、翌日早速、歓迎報告会を催し、ここに会社創設の機運は急速に盛り上がった(倉敷紡績百年史より)。
- ^ |馬越恭平:1844年生。備中興譲館初代館長阪谷朗盧のもとで13歳まで学んだ。当時、二代目館長坂田警軒は18歳で塾頭であった(興譲館高等学校120年史)。澤三郎は坂田警軒館長の下で学ぶ。澤三郎の東京遊学、紡績所設立のための調査団として上京のとき馬越恭平の協力を得られたのは興譲館の後輩であり(備中の後輩でもある)、坂田警軒の力添えがあったと思われる。尚、倉紡設立後、馬越恭平は倉紡の株式を引き受け、大株主として倉紡の事業を援助した(回顧65年 倉紡:昭和28年発行)。
- ^ |渋沢栄一:1840年生。澤三郎との接点は二つ考えられる。一つは澤三郎が学んだ興譲館の人脈、二つ目は渋沢栄一が設立した日本最初の民営の紡績企業である大阪紡績会社(現・東洋紡)である。 まず、興譲館の人脈について補足する。倉敷紡績百年史には、三井物産に勤務の郷里の先輩、興譲館の先輩である馬越恭平の斡旋があったことは記されているが、その前に渋沢栄一と興譲館とのつながりがあった。即ち、備中興譲館のある現在の井原市は一橋家の所領であった。1865年、一橋家藩士として井原を訪れた渋沢栄一について興譲館高等学校120年史にご子息の渋沢秀雄の次のような寄稿が載っている。 『父の旅宿へきた朗盧は政治論が始まると、「あなたは一橋のお役人様だが、このことばかりは役目を離れて聞いていただかねば…」と前置しながら、盛んに世界各国の情勢と日本の開国を説いた。その数年前に「阿片戦争」の話を読んで、人体に有害な阿片を支那へ売りつけ、それを買わないといって戦争まで仕かけたような外夷は打ち払うに限ると思い込んでいた父は、きっと朗盧に反対したろう。二人の間にどんな議論があったかわからないが、朗盧の方が世界の実情に対して、幅の広い知識や見解を持っていたことは確からしい。そのときから二年後に、徳川慶喜の弟昭武の随員としてフランスに渡った父は、ヨーロッパ諸国の進んだ制度文物に胸を打たれたとき、備中の片田舎に進歩的な偉い学者のいたことを感慨深く思い出したに違いない。 朗盧に会った父は、次に土地で有名な関根という剣客の道場を訪問し、さいわい試合に勝った。すると土地の人たちが、今度来た役人は剣術では関根先生を負かし、学問では阪谷先生と対等に議論する。若いけれども偉い人に違いないと評判しだした。そして父の宿屋へ面会を求めにくる青年たちがふえていった。』。 この出来事については、土屋喬雄著「渋沢栄一」(吉川弘文館・人物叢書)にも次のように書かれている。 『そこで早速阪谷を尋ねようと、七言絶句を作り、酒一樽を添えて、明日推参するという書面を送った。翌日興譲館を訪ね、阪谷や門下生らと時事を談じて帰り、次に阪谷と書生を旅宿に招待して宴会を催した。阪谷は開港論を主張し、栄一はそれに反対し、互いに城府を開いて開鎖の得失を論じ、痛飲した。その後剣道指南関根某とも手合せをしてみたが、易々とこれを打ち負かした。狭い田舎だから、その噂はすぐに広まった。近傍村々で文武に心得ある青年らは、尊敬の余り、栄一を日々訪ねてくるようになった。』 次に大阪紡績会社との関係である。 大阪紡績会社は、渋沢栄一が益田孝、大倉喜八郎らと謀り明治15年(1882)、日本で最初の民営の紡績企業として操業開始した。官設の紡績所に代わり民間資本による国際競争ある大規模な紡績所を企図したものである。澤三郎たちが企画した紡績所も、近郷の玉島紡績所や下村紡績所のような官営ではなく地域の人々の出資による民営であった。そして、1887年の上京調査団の途上で大阪紡績所を視察している。 東京では、既に操業5年を経て資本金120万円、紡機6万錘を擁するまでに発展した大阪紡績の経営者である渋沢栄一からは紡績経営上の貴重なアドバイスを得たに違いない。
- ^ |澤三郎永眠::「倉敷紡績百年史」に操業開始直後の様子が次のように記載されている。 『工場からは、朝な夕な従業員に時刻を告げる力強い汽笛の音が「ポー」と響き、静かな村の空気を震わせた。それを聞く村人たちは、快い工業化の刺激の中に、新しい時代の到来を感得した。正に「倉紡の創立は、倉敷の土地に新生命を与えた」のであった。紡績所開業に当たり、関係者一同の期待は、いよいよ膨らんだ。 その中にあって、当初から三青年の一人として紡績所設立を心に願い、それを唱道してきた大橋取締役は、東奔西走、よくこの難しい事業に立ち向かっていたが、工場建設の苦労の最中、不幸にして病魔に倒れた。日々悪化する病床にあって、無念に涙していたが、漸く完成した工場の汽笛を耳にしたとき、その理想の実現に、安堵と満足の笑みを浮かべ、静かに瞑目していった。それは、開業十日後のことであった。』