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奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件
場所 日本の旗 日本奈良県添上郡月ヶ瀬村嵩(現:奈良市月ヶ瀬嵩)
標的 中学2年生(13歳 当時)の女子生徒A
日付 1997年平成9年)5月4日
武器 自動車
死亡者 1名(被害者A)
犯人 25歳(当時)の村の住民の男O
対処 2000年6月14日 無期懲役確定
2001年9月4日 Oが自殺大分刑務所
謝罪 あり
刑事訴訟 無期懲役
管轄
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奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件(ならけんつきがせむら じょしちゅうがくせいさつがいじけん)とは、1997年平成9年)5月4日奈良県添上郡月ヶ瀬村(現:奈良市月ヶ瀬嵩)で発生した殺人事件[1]

同時期に発生した神戸連続児童殺傷事件とともに、子供が被害者となった事件として全国的に注目を集めた[1]

概要

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1997年平成9年)5月4日、奈良県添上郡月ヶ瀬村で当時13歳だった中学2年生の女子生徒Aが卓球大会の帰りに行方不明となった[2]

村人、警察が通学路を捜索していると、Aのスニーカーが発見され、道路にはタイヤ痕、ガードレールには血痕が付着していた。近くの西部浄化センターの公衆トイレでは切り裂かれたAのジャージと、血だらけのダウンベストが発見された[3]

警察はAがひき逃げや事件に巻き込まれた可能性があるとして捜索を開始した。警察が聞き込み調査をしたところ、当時25歳の無職の男Oが浮上した。Oは四輪駆動三菱・ストラーダを乗り回しており、警察やマスコミはOをマークし始めた。

7月23日奈良県警はAに対する未成年者略取容疑で被疑者Oを逮捕した[1]。Oは当初容疑を否定していたが、犯行後に売却したOの車の後部座席に被害者の血液DNAなどが発見された事や、切り裂かれたジャージからはOの車のタイヤ痕が発見され、それらを追及すると犯行を認めた。自供通りAの遺体が発見されたことから、Oは8月12日に殺人容疑で再逮捕された[1]

1998年(平成10年)10月19日に奈良地方裁判所(鈴木正義裁判長)で被告人Oに懲役18年の判決求刑無期懲役)が言い渡された[1]2000年(平成12年)6月14日に大阪高等裁判所で無期懲役の判決が言い渡され、確定したが、Oは服役中の2001年(平成13年)9月4日に収監先の大分刑務所でランニングシャツを紐状にして窓枠にかけて首を吊って自殺している[3]。他の受刑者からのいじめを苦にしたものと言われる。

動機

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月ヶ瀬村には地元民2名の推薦がなければコミュニティに参加する事が出来ないという「与力制度」が存在していた。この与力制度で村に収める負担金や家の格付けなどが行われているが、この制度が村八分という差別を作り出している元凶となっていた。Oの家族もこの差別行為の標的にされ、精神的に追い詰められていた。

Oは犯行の動機について「車を運転して帰宅の途中、偶然被害者のAと遭遇した。そこで顔見知りであるAに『家に送ってあげる』と声をかけたが無視された。度重なる村八分によるストレスと相まって、衝動的に歩いている被害者の背後から車で轢き、発覚を恐れて連れ去り三重県上野市(現:伊賀市)の山中で首を絞めた上で石で撲殺した」 [4]と自供した。

出典

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  1. ^ a b c d e 西日本新聞』1998年10月19日夕刊第10版B一面1頁「月ケ瀬村中2殺害 O被告に懲役18年 奈良地裁判決 「冷酷な犯行」」(西日本新聞社
  2. ^ 奈良で女子中生不明 路上に靴と血痕 産経新聞、1997年5月5日
  3. ^ a b 奈良・月ヶ瀬村、女子中学生殺人事件(事件史探求)
  4. ^ O被告、Aさんの略取、殺害認める 産経新聞、1997年10月28日(※記事名には犯人と被害者それぞれの実名が用いられているがケースB-2を考慮し伏せた)