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妹尾兼康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
妹尾兼保から転送)
妹尾兼康の墓(岡山市吉備津)

妹尾 兼康(せのお かねやす、保安4年(1123年) - 寿永2年閏10月12日1183年11月28日))は、平安時代末期の平氏方の武将瀬尾兼康とも呼ばれる。通称は太郎。

生涯

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出生については謎が多く、保延2年(1136年)3月18日に鳥羽上皇とその官女であった妹尾保子との間に京都八条の平忠盛邸にて生まれたという説や、大治元年(1126年)3月18日に生まれたという説などがある。[1]

早くから平氏に仕え、『保元物語』『平治物語』『平家物語』などに平家方の侍としてその名が記されている。

治承4年(1180年)には南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため多くの死傷者を出した。このことが後に平重衡らによる南都焼討へとつながっている。その後寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れてその捕虜となる。

しかし、備前国で逃亡を図り、監視役の倉光次郎成氏を殺害し、2000人もの兵を集めて福隆寺縄手・笹の迫に立てこもって義仲に反旗を翻す。成氏の兄・倉光三郎成澄を討ち取るなど奮戦したが、そこでも敗れて敗走。その後、肥満の為自分で身体を動かす事ができない嫡子・妹尾宗康を助けるために引き返すが、備中国板倉宿付近(現・岡山県岡山市北区吉備津)で討たれた。源義仲をして、「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたという(福隆寺縄手の戦い)。

妹尾太郎兼康公墓 岡山市北区吉備津1444鯉山小学校門手前2019時点整備後
妹尾太郎兼康公墓説明板 墓所手前柵、看板の会社は陶山氏の子孫の方

経歴

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和暦 西暦 月日(旧暦) 内容 出典 その他
大治 1126 3月18日 生誕 [1] 保延2年(1136年)とする説もあり
保延4 1138 平清盛に近仕。 [1]
永治 1141 妹尾郷を受領。 [1]
保元 1156 保元の乱に従軍。 [1]
平治 1159 平治の乱に従軍。 [1]
承安3 1173 近江国野州の水路が完成。 [2][3]
治承4 1180 大和検非所長官に任命される。 [1]
寿永2 1183 一二ヵ郷用水路完成[注釈 1] [1]
寿永2 1183 5月17日 倶利伽羅峠の戦いで捕虜となる。 [1]
寿永2 1183 10月14日 板倉・轟橋にて嫡子・妹尾宗康と共に討死。 [1]

墓所

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兼康の遺骸は郎従の陶山道勝によって葬られ、その場所に道勝寺が建立されたが、明治初年に廃寺となり、その跡地は現在岡山市立鯉山小学校となっている。[5]

『平家女護島』「俊寛」

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近松門左衛門人形浄瑠璃、『平家女護島』の二段目「俊寛」には、妹尾兼康が悪役として登場する。

脚注

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注釈

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  1. ^ 十二ヶ郷用水とも。刑部郷、真壁郷、八田部郷、三輪郷、三須郷、服部郷、庄内郷、加茂郷、庭瀬郷、撫川郷、庄郷、妹尾郷の十二郷に用水が供給されていた[4]。現在の総社市清音村山手村岡山市倉敷市[4]。(高梁川および総社市を参照)

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『悲運の平将「妹尾太郎兼康」評伝-一二カ郷水利の偉功-』同前峰雄著、日本文教出版、1987年
  2. ^ 『真説「平家物語」瀬尾太郎登場の背景』山本啓作著、東京経済出版、1993年
  3. ^ 『祇王寺縁起』
  4. ^ a b 十二ヶ郷(じゅうにかごう)用水”. 岡山県. 2018年6月17日閲覧。
  5. ^ 『郷土史事典 岡山県』昌平社出版、1980年

関連作品

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テレビドラマ

関連項目

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外部リンク

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