コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

姉小路実尚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
姉小路 実尚
時代 鎌倉時代初期 - 中期
生誕 建暦元年(1211年
死没 不詳
官位 正二位権中納言
主君 順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 姉小路家(閑院流)
父母 父:姉小路公宣、母:藤原兼光の娘
兄弟 実世実文実尚
源兼氏の娘
公朝公尚、実昭
テンプレートを表示

姉小路 実尚(あねがこうじ さねなお、旧字体姉小路 實尙)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿権大納言姉小路公宣の三男。官位正二位権中納言

経歴

[編集]

貞応2年12月(1224年1月)従五位下叙爵し、翌年侍従に任ぜられる。嘉禄2年(1226年)従五位上に、寛喜3年(1231年正五位下に叙され、嘉禎2年(1236年従四位下右近衛少将に叙任。嘉禎3年(1237年常陸権守を兼ねる。

嘉禎4年(1238年)従四位上・右近衛中将に叙任。仁治元年(1240年正四位下に進み、仁治2年(1241年甲斐介を兼任。さらに宝治2年(1248年)正月土佐権介を兼任する。また、同年同月に後嵯峨上皇行幸殿上人として供奉している[1]建長2年(1250年蔵人頭に補された。

建長3年(1251年参議に任ぜられ公卿に列す。従三位に叙された後、左近衛中将を兼ねる。建長7年(1255年正三位に叙され、正嘉元年(1257年)には従二位に進む。正嘉2年(1258年)権中納言に昇るが、同年11月に辞任し正二位に叙された。文永8年12月(1272年1月)出家しその後の消息は不明。

官歴

[編集]

※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 貞応2年12月17日(1224年1月9日):従五位下に叙爵。
  • 貞応3年(1224年)正月22日:侍従に任ず。
  • 嘉禄元年(1225年)7月24日:復任(父)。
  • 嘉禄2年(1226年)正月5日:従五位上に叙す。
  • 寛喜3年(1231年)正月29日:正五位下に叙す(前上西門院仁安元年大嘗會御給)。
  • 嘉禎2年(1236年)4月14日:右近衛少将に任ず。12月29日(1237年1月27日):従四位下に叙す(嘉陽門院去年大嘗會御給)。少将如元。
  • 嘉禎3年(1237年)正月24日:常陸権守を兼ぬ。
  • 嘉禎4年(1238年)4月6日:従四位上に叙す(臨時)。11月16日:右近衛中将に転ず。
  • 仁治元年(1240年)11月14日:正四位下に叙す。
  • 仁治2年(1241年)2月1日:甲斐介を兼ぬ。
  • 宝治2年(1248年)正月6日:後嵯峨上皇行幸供奉。正月23日:土佐権介を兼ぬ。
  • 建長2年(1250年)正月13日:蔵人頭に補す。正月20日:禁色を聴す。
  • 建長3年(1251年)正月22日:参議に任ず。
  • 従三位に叙す。
  • 建長6年(1254年)8月5日:左近衛中将を兼ぬ。
  • 建長7年(1255年)10月21日:正三位に叙す。
  • 正嘉元年(1257年)11月15日[2]:従二位に叙す。
  • 正嘉2年(1258年)正月13日:権中納言に任ず。11月1日:辞し、正二位に叙す。
  • 文永8年12月(1272年1月):出家。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 葉黄記宝治2年正月6日条
  2. ^ または12月15日(『姉小路家譜』)。