姉小路実尚
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時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
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生誕 | 建暦元年(1211年) |
死没 | 不詳 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 姉小路家(閑院流) |
父母 | 父:姉小路公宣、母:藤原兼光の娘 |
兄弟 | 実世、実文、実尚 |
妻 | 源兼氏の娘 |
子 | 公朝、公尚、実昭 |
姉小路 実尚(あねがこうじ さねなお、旧字体:姉小路 實尙)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。権大納言・姉小路公宣の三男。官位は正二位・権中納言。
経歴
[編集]貞応2年12月(1224年1月)従五位下に叙爵し、翌年侍従に任ぜられる。嘉禄2年(1226年)従五位上に、寛喜3年(1231年)正五位下に叙され、嘉禎2年(1236年)従四位下・右近衛少将に叙任。嘉禎3年(1237年)常陸権守を兼ねる。
嘉禎4年(1238年)従四位上・右近衛中将に叙任。仁治元年(1240年)正四位下に進み、仁治2年(1241年)甲斐介を兼任。さらに宝治2年(1248年)正月土佐権介を兼任する。また、同年同月に後嵯峨上皇の行幸に殿上人として供奉している[1]。建長2年(1250年)蔵人頭に補された。
建長3年(1251年)参議に任ぜられ公卿に列す。従三位に叙された後、左近衛中将を兼ねる。建長7年(1255年)正三位に叙され、正嘉元年(1257年)には従二位に進む。正嘉2年(1258年)権中納言に昇るが、同年11月に辞任し正二位に叙された。文永8年12月(1272年1月)出家しその後の消息は不明。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 貞応2年12月17日(1224年1月9日):従五位下に叙爵。
- 貞応3年(1224年)正月22日:侍従に任ず。
- 嘉禄元年(1225年)7月24日:復任(父)。
- 嘉禄2年(1226年)正月5日:従五位上に叙す。
- 寛喜3年(1231年)正月29日:正五位下に叙す(前上西門院仁安元年大嘗會御給)。
- 嘉禎2年(1236年)4月14日:右近衛少将に任ず。12月29日(1237年1月27日):従四位下に叙す(嘉陽門院去年大嘗會御給)。少将如元。
- 嘉禎3年(1237年)正月24日:常陸権守を兼ぬ。
- 嘉禎4年(1238年)4月6日:従四位上に叙す(臨時)。11月16日:右近衛中将に転ず。
- 仁治元年(1240年)11月14日:正四位下に叙す。
- 仁治2年(1241年)2月1日:甲斐介を兼ぬ。
- 宝治2年(1248年)正月6日:後嵯峨上皇行幸供奉。正月23日:土佐権介を兼ぬ。
- 建長2年(1250年)正月13日:蔵人頭に補す。正月20日:禁色を聴す。
- 建長3年(1251年)正月22日:参議に任ず。
- 従三位に叙す。
- 建長6年(1254年)8月5日:左近衛中将を兼ぬ。
- 建長7年(1255年)10月21日:正三位に叙す。
- 正嘉元年(1257年)11月15日[2]:従二位に叙す。
- 正嘉2年(1258年)正月13日:権中納言に任ず。11月1日:辞し、正二位に叙す。
- 文永8年12月(1272年1月):出家。